映画:「シカゴ7裁判」、不当な扱いに抵抗するいくつものやりかた。
お店でクレジット払いにして、わたしが暗証番号をうつとき、店員さんがそれを見ないようにする動きをひそかに楽しんでいる。静かにうつ向くことを基本として、これまでに、手をひろげてひらりと優雅に後ろを向くひとと出会った。今日のブックオフの店員さんは、猫がハエに反射するかのように首をすわっとあげた。さて、本日は映画。
■「シカゴ7裁判」
監 督 アーロン・ソーキン
主 演 ジョセフ・ゴードン=レビット、エディ・レッドメインなど
製作年度 2020年
状 態 ネットフリックスで観た
法廷劇である本作は、実際の裁判をもとにしている。1968年夏、米イリノイ州シカゴでの民主党全国大会のさなか、会場の外で、ベトナム戦争に抗議するデモ隊と警察が衝突した。裁判はこの衝突を扇動したという容疑で逮捕起訴された7人、「シカゴ7」を裁くものだ。争点は、衝突を引き起こすきっかけとなったのは、デモ隊と警察どちらが先に手をだしたからか、ということである。
開廷するやいなや、裁判長はシカゴ7に対して高圧的な態度をとる。このちょ~イヤなかんじの裁判長を、フランク・ランジェラが好演している。どうやらこの裁判、シカゴ7が警察に先に手を出したとして、彼らを有罪にする筋書き「ありき」のもののようだ。背景には、反体制側の勢力がひろまることをおそれたこと、また、この事件に関して前の司法長官が下した調査結果(先に手を出したのは警察)を覆したい、という政治的な思惑があった。それで裁判長はアンフェア裁量で、弁護側の質問や異議をムリな理由でみとめなかったり、シカゴ7側に親和的な陪審員の交代を工作したりする(!)。
なんとまあ、むちゃくちゃことをするのだが、これにも増して信じられないのが、アフリカ系アメリカ人のあつかいである。被告席にはシカゴ7(白人)のほか、ひとりの黒人男性も座らされていた。彼はブラックパンサー党員で反体制勢力であるのだが、シカゴ7とは別に動いており、裁判で争われる衝突にはまったく関わっていなかった。が、体制側にとって危険分子であるため、ここでひっくるめて有罪しようとされているのだ。黒人男性は一緒にするな!と何度も訴える。しかしまったく聞き入れられない。しまいには、くつわを付けられ、拘束されて坐らされる。まるですでに罪人である。いやいや疑わしきは被告人の利益にだよ! これほどの差別が60年代にまだあったことに驚く。
しかしそれでも、裁判長は「わたしは差別主義者などこれまでいわれたことがない!」といって、自分の行為があたかも「公平」であるかのようにいうのである。こういった、力をもつ側が「公平性」「必然性」を装いながら、システムによって、力の弱い側・体制を批判する側をおさえつけることは、今日まで世界中で繰り返されてきている。
本作は社会的なテーマを扱っているが、けっして退屈な内容じゃない。監督アーロン・ソーキンは、これまで『ソーシャル・ネットワーク』『マネーボール 』など、理屈っぽい会話劇をキレの良い編集でぐいぐいみせる映画を撮ってきた。今回の法廷劇は、おてのものだろう。とくに、とても良い演出が、いけすかない裁判長に対し、シカゴ7+1がさまざまに「いうことを聞かないふるまい」をすることだ。ときに、ふざけてみたり、言葉尻をとってみたり、裁判の前提をうたがってみたり、同じことをめげずにくりかえし訴えてみたり、ヒューマニズムに訴えてみたり。それらの行為に裁判長はいらだち、感情的になっていき、「公平性」の装いが剥げ、「不平等性」があらわになる。本作のシカゴ7+1のふるまいは、不当な扱いに抵抗するいくつものやりかたをわたしたちにしめす。
裁判の冒頭、裁判長は、被告の名前を何度も間違える。それに対しシカゴ7がいちいち訂正を挟む。一見ユーモラスなやりとりだが、これは結末のある大事な行動とつながっている。このラストシーンは教えてくれる。われわれはひとりひとりが名前をもつ個別の人間であり、巨大な力の前にあってもけっして雑に一緒くたにさせてはならないのだと。