hydeの誕生日を祝いに行ったら、なぜかロゴセラピーを受けて魂が救われた話

2025年1月18日、19日の2日間、L'Arc-en-Cielの東京ドーム公演「hyde誕生祭」に行った。
私は、音楽は音楽として楽しみ、味わい、その美しさとか表現に感動する方で、あまり自分の人生と結びつけて考えたりはしないタイプだ。
だが、今回は、この数週間、というか、もっと言えば10代の頃から考え、悩んできたことに、突然光と救いが与えられたような体験だった。
いつものようなライブの感想も書こうと思っているし、ある程度書いてもいるのだけれど、この体験を一度言語化して消化しないことには、眩しすぎて明日が見えない。

本当に個人的な日記みたいな話で、ライブの感想の態を成していないので、感想やレポを求めてる人はお戻りください。


1.ALONE EN LA VIDAと『夜と霧』

ALONE EN LA VIDA前のMCで、hydeはこんなことを言っていた(記憶ベースなので、言葉はニュアンスでご理解ください)。

「昔から、考え方も生き方も変わった。その時々に作った歌詞を見ると、思い出すものがあります。
 次の曲は、例えば最後の晩餐何食べる?っていうときに、その答えに案外真実が表れていたりする。最後があるからこそ、大事なものに気づくことができる。最期があるから見えるものがある。人生いつ終わるかわからない、終わりがあるからこそ愛らしい。
 そんなことを、突き詰めて考えていた時に作った曲です。」

そのALONE EN LA VIDAの歌詞には、こんな言葉がある。

 道先に明日が どれくらい 待つだろうか

「いつ終わるかわからない」人生を、こんな表現にする純粋に詩としてのすばらしさもさることながら、私は改めて歌詞を見直して、つい最近読んだV.フランクルの『夜と霧』を思い出していた。

V.フランクルは、オーストリアの心理学者・精神科医である。ユダヤ人であり、ナチスによるオーストリア併合のあと、強制収容所に収容され、生還した人物である。なお、同じく強制収容所に収容された両親と妻は、収容所内で命を落とした。
この壮絶な体験を経て執筆された名著『夜と霧』と、hydeの言葉や歌詞が、驚くほど似ていた。

一つは、人生は、死も含めての人生だということ。
むしろ死があるからこその人生であるということ。
フランクルは、「苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」(『夜と霧』新版 池田香代子訳)と述べている。

もう一つは、私たちは人生を「持っている」のでも人生から「与えられる」のでもない。人生が「待っている」、「明日が待」っているのだということ。
フランクルは「生きる意味」について次のようにいう。
「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ」と。
この発想のコペルニクス的転換が、フランクルの思想の核だと思うのだが、同じ転換をhydeがしていて、びっくりした。

私は、芸術家は作品が素晴らしければ、人柄はどうでも良いと基本的には思っている。
けれど、他方で、芸術作品は、創作者の全人格的表現であることから逃れられず、その人格・思想・想いの表現としてしか存在し得ないのではとも思う。
だとすると、hydeがこういうことを考える人でいてくれて、そして考えた結果としてALONE EN LA VIDAのような答えを出す人でいてくれて、本当に良かった。

2.人生の意味に関する悩みとロゴセラピー

高尚な話から、卑近な自分の話になり恐縮だが、じつは最近、私はこの夜に迷ってしまっていた。
別に何かあったわけではない。誰も死んでないし、何か悲しい出来事があったわけでもない。

ただ、ぼんやりとこの数年、もっと言えば物心ついて以降の数十年、「人生の意味ってなんだろう」とか「生きる意義とは」とか「自分が生きていることに意味はあるんだろうか」とか考えてしまうほうだった。

考え始めると突き詰めて考えだしてしまうほうで、とくにコロナ禍以降、哲学書を何冊も読んだり、流行りの米国流生き方の本(DIE WITH ZEROだのGOOD LIFEだの)とか、果てはブッダの言葉だの方丈記だのティクナットハン(マインドフルネスの世界的権威である僧侶)の本だのを読んだりしてしまっていた。

ライフステージ的なことで言えば、過去には、いつも何か目標があり、それを達成するための計画があり、計画を立てて悪戦苦闘して、どうにか乗り越えて目標を一つ一つ達成する、みたいな繰り返しだった。それが、5年くらい前に、一応最終目標みたいなのを達成し落ち着いた今、次のステージが見えない。
日々の仕事や生活では目標もタスクもあるけれど、良くも悪くも過去にはハードルだったそれらが日常になってしまっている、というのも原因の一つかと思う。何か必死に打ち込まなければならないことがあれば、余計なことは考えなくて済むからね。

精神的にはいたって健康だし、希死念慮とかもない。けれど、ときどきその問いに立ち返って、同じことをぐるぐると考えてしまう。希死念慮は皆無だけど、ときにはべつに生きていなくてもいいような気もしてしまう。
特にこの数週間は、ちょっと病気がぶり返した感じで、考え込んでしまっていた。

というタイミングで、今回のライブが来た。
そして、冒頭のMCを経て、ALONE EN LA VIDAを演ってくれたのである。
これまでもずっと、hydeとラルクのライブや作品は私の人生の光でありつづけたし、勝手に癒されたり元気をもらったりしてきたけれど、こんなふうに今現在の「問い」に対して、まっすぐに答えのような光をもらったのは初めての体験だった。

前述のフランクルは、ロゴセラピーという「生きる意味」を見出すことで心の病気を治すことを提唱した人であるらしい。
たぶんそんな意図もないのだろうに、自然にそれをやってしまうhyde凄い。

3.誕生日を祝いに行ったら、逆に救済された体験としてのライブ

2日目の最後の最後に、もう一つ、予想外のことがあった。
hydeが、ラストの曲「あなた」の合唱に触れて次のように言ったのだ。
(なお、言葉は不正確。ニュアンスとしてご理解ください)

「最後のあなたは、いつもは皆さんに向かって歌ってるんですけど、今日は贅沢にもみんなの、5万人以上の人に歌ってもらって、自分は生きてて良いんだ、存在していることに意味があるんだと思えました。
最後のサビは、僕もみんなに、あなたに、あなた達一人一人に向けて、生まれてきてくれてありがとう、という気持ちで歌いました。
今日は来てくれてありがとうございました」

この言葉は、私にとって二重の意味で救いだった。
一つはこの言葉そのままの意味として。
もう一つは、hydeが、「自分は生きていて良いのか、存在していることに意味はあるのか」という、同じ問いを持つ人であるということ、この根本的な生に対する疑問を共有できる人であるという意味において。

hydeなんて、生きていて良いどころか、どれだけ人に生きがいと喜びを与え、癒しと勇気を与えていることか、人類最高レベルに存在していてくれてありがとうな存在に決まってるでしょうが!ちょっと何言ってるのか意味がわからない!
と思う一方で、たぶん、どんなに人から求められようと、意義のある仕事をしようと、その存在の意味、人生の意味は、その人一人でしか決められないのだろうとも思った。
どれほどの才能や社会的地位や名誉があろうと、どれほどの功績を遺そうと、どれほどの人に愛されようと、きっとそれぞれの悩みと孤独と苦しみから、最終的には「死」から、完全に逃れることはできないのが生きるということなのだろう。
最期があるからこそ「生」が、苦しみがあるからこそ「喜び」が光り輝き、終わりがあるからこそ何気ない日常や、人との繋がりが愛おしくなるのだと思った。

私は面倒臭い人間なので、hydeが生まれてくれてありがとうと言ってくれたからといって、生きる意味が見つかりました万歳!とはならない。
たぶんこの後も、相変わらず自分の人生の意味を考え続けるだろうし、哲学書や何かを読み続けるだろうし、答えを探して悩みながら生きるだろう。
でも、いい大人になって、いまだにこんな抽象的で根本的なことを考えたり、悩んだりするのもどうなの恥ずかしい…と思っていたところに、同じことを考えていた人がいる。しかもそれが大好きなアーティストであるというのは、個人的にこの上ない救いだ。

という驚きと感動があまりにも莫大で、ほんとうはあの黒の編み上げ天才お衣装のことも言いたいし、2日目の花葬は過去最高中の最高の花葬だったし、そもそもセトリに私のもっとも好きな各アルバムベスト曲しか並んでいないし、ほかにもいろいろあるけど、とりあえずここにこの駄文を成仏させてください。