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私を見つめる「大文字の他者」〜ーォヴ・ンヤの視点〜

こんにちは、すりみです。
先日ヤン・ヴォー展に行ってとてもいいな〜と思ったので、短いエッセイを書きたいと思います。

ヤン・ヴォー展@国立国際美術館

先日ヤン・ヴォー展に行ってきました。実は、最近ハマっているラジオで紹介されていたのがきっかけなのですが、以前から現代アートに興味があったので、終了間際に行ってきました。ハマっているラジオは常夏です。

ヤン・ヴォーについてはそこまで詳しくないので、今回の展覧会の概要から以下引用させていただきます。

 ヤン・ヴォーは1975年、ベトナム・バリアに生まれ、現在はベルリンとメキシコ・シティを拠点に世界各地で活躍しています。ヴォーは4才の時に、父親の手製のボートに乗って家族とともにベトナムから逃れます。海上でデンマークの船に救助され難民キャンプを経てデンマークに移住。コペンハーゲン王立美術学校、フランクフルト(ドイツ)のシュテーデル美術学校で学びました。

ヤン・ヴォーは、彼自身の経験、家族の歴史、社会的あるいは政治的な歴史に彩られたレディ・メイドの物、写真や手紙などの蒐集品、また彼の周辺の大切な人たちの手によるものを取り込みながら作品化します。それらの作品を通じ、アイデンティティ、権力、歴史、覇権主義、エロティシズムといったテーマが直接的にあるいは比喩的に顕れ、鑑賞者にも一つの事物に対して異なる角度からの視線を持つことを誘います。

(国立国際美術館HP:https://www.nmao.go.jp/exhibition/2020/danh_vo.html

ヤン・ヴォーはベトナム出身のアーティストで、ベトナム戦争の影響を強く受けて育ちました。それらの経験に基づいた現代社会への批判が、多くの作品の中で表現されています。今回の展示でも、ベトナム戦争への介入したアメリカの重要人物や現地住民の生活を捉えた作品、また、その延長上にある歪んだ資本主義社会を批判的に描いた作品が展示されていました。

普段音声ガイドを使うことはほとんどないのですが、ラジオで音声ガイドがないとわからないことがあると聞いたので、今回は音声ガイドを借りて回りました。

作品の中の鋭い視点に考えさせられるだけではなく、直感的な美しさにも魅了される展示でした。

もともと可愛い文字を切り抜いて集めたり、カリグラフィーの本を眺めたりするのが好きなのですが、今回の展示では各所に美しいカリグラフィーが散りばめられていて、それだけであ〜とても好きだ!となってしまいました。

また、展示の各所に配置された鏡とそれに合わせて展示されていた写真群も直感的な美しさを持っており、皮肉にもヤン・ヴォーが伝えたかったメッセージへの理解がなくても、楽しむことができる展示だったのではないかと思います。

私を見つめる別の私

批判の内容は「異なる視点から物事を捉えて欲しい」意図を組んでここでは深く触れませんが、それ以外で一つ気になったことがありました。

彼自身の過去最大に辛い思い出を作品にしているのに、その悲しさや憤りがあまり表出していないように見えました。それらは、静かな叫びや冷たい語りのようなものとして提示されているようでした。

・戦時下におけるベトナム戦争を指揮したアメリカのお偉いさんの、親しい友人との手紙でのやりとりを横並びに展示した作品。
・終戦が決定したホテルのシャンデリアが木箱に入れられ照らされている作品。

こういった表現方法なのだと言ってしまえば、そうかで終わってしまうのですが、気づかなかったことにするにはちょっと気になりすぎる点でした。自分の中での意味を見出せないでいた、展示に複数登場した鏡に込められた意味を読み解く鍵になるような気もして一旦立ち止まって考えようと思いました。

また、ここに「ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ」と言う題名になっている理由もあるのではないかと思いました。

私が立てた仮説は、「ヤン・ヴォーは作品を作るとき、自分を見つめる他者の視点から自分の経験を相対化して捉えている」また、「複数の絵具を塗られた鏡は、自分の姿を完全に把握することの不可能性、私を見る私以上に私を知る存在を示唆している」です。

ヤン・ヴォーは作品を通じて批判を行う際に、自身の視点からその経験を振り返り形にするのではなく、自身を見つめる他者の視点から過去を見つめ、他者の経験と関連させながら描いているのではないか。しかし、俯瞰的に全体を眺められるような相関図を作るのではなく、他者の視点を自分の中に回収することで、あくまでもヤン・ヴォー視点の作品を完成させているのではないか。と思いました。

ーォヴ・ンヤが他者を意味しているというのが私の仮説で、「他者」を使っているのは、ラカンの大文字の他者を意識しているからです。

ラカンによると、人は発言をする際に自分自身とその発言との間に分裂を常に経験しています。これは発言内容を証明することができないことによる困難で、人は大文字の他者が自分に求めている像に同一化することで、その分裂を回避しようとします。そして自己は自己像なるものを手に入れるのですが、それが自分の本来持っていた自己像と異なる、もしくは異なる可能性があるとして、その自己像に確信が持てず、個人は常に緊張感を持った状態に陥ります。

つまり、ラカンの大文字の他者を用いると、ヤン・ヴォーは大文字の他者の視点から作品を描くことで同一化を達成しています。しかし、その同一化によって、自分自身が抱いていた複雑な感情も置き去りにされ、奇妙なほどに感情のない、虚しい美しさが表現されたのではないかと思いました。(大雑把にラカン理論を適用してしまっているので、詳しい方はご指摘ください、、)

また、その他者の存在を観客にとっても実感可能にしているのが鏡なのではないかと思いました。つまり、絵具を塗られた鏡はそこに観客を映し出しますが、それらに映る像はどれも不十分で、自分が自分の姿を完全には知り得ないことを知らせます。そして、鏡の裏側にある自己像が常に自分のこと見返しており、実はそれが自分以上に自分を知っていることを知らせます。

おわりに

私はラカン理論をヒントにして、なんとなく今回のヤン・ヴォー展の理解が進んだかなと思うのですが、主催者側の言っているようにそれぞれ個人の独自の視点を反映させられることが現代アートの魅力だなと思うので、皆さんの解釈を聞きたいと思いました。

これからも美術館に足を運び考えたことをnoteに残していこうと考えているので、もし良ければお勧めの美術展や観賞noteを教えていただけると嬉しいです!



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