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desperate

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 熊みたいな魔女が繰り出した鉤爪を、やちよは屈んで躱した。そしてバネみたいに跳び上がって、顎にサマーソルトキックを喰らわせた。魔女が仰け反って胴体の守りがガラ空きになる。

「いろは!」

 空中のやちよが呼びかけた。いろはちゃんは頷いて、予め引き絞るようにチャージしていた矢を放った。狙い過たず、矢は魔女の胸を貫通した。魔女は呪詛を吐きながら倒れて、黒い泥と化して溶けた。人間を焼いて骨だけが残るみたいに、後にはグリーフシードだけが残されていた。周りの景色が歪んで、結界が消えていく。

「やっちよししょー!」

 わたしは走って、残心しているやちよに思いきり抱きついた。やちよは「ぐっ!」みたいな声を出して、わたしを引き剥がす。

「どうしてそうもあなたは落ち着きが……!」

「やちよさん! 鶴乃ちゃん!」

 いろはちゃんがグリーフシードを持って小走りでこっちに来る。やちよはそれを見て頬を緩ませてから、わたしを横目で見た。

「あなたもいろはくらい落ち着いてくれたらいいんだけど」

「ごめんってばー!」

 やちよは差し出されたグリーフシードを受け取った。そして、そのグリーフシードをいろはちゃんのソウルジェムに当てた。いろはちゃんが慌てる中、ソウルジェムのピンク色が澄んでいく。

「今日のMVPはいろはだもの。ちゃんとトドメを差してくれたし」

「でも、それはやちよさんと鶴乃ちゃんのサポートがあったからで……! 私なんてずっと待ってただけで……」

「なんにせよ、もう浄化終わったわよ」

 やちよはグリーフシードを離した。いろはちゃんは不服そうな表情をしていたけれど、やがて諦めたように笑顔になって「ありがとうございます」って頭を下げた。やちよは微笑んでいた。わたしもそんなやちよたちの光景に、微笑ましい気持ちになっていた。

 やちよはすっかり初めて会ったときの性格を取り戻して、わたしたちを仲間と呼ぶことをためらわなくなった。トゲトゲしかった頃のやちよは、わたしたちにだけじゃなくて自分自身に対しても辛く当たっていた気がして、どこか死ぬ場所を探しているようでもあって、見ていられなかった。でも、今のやちよはどういう生き方をするかを考えてるし、毎日忙しそうだけど楽しそうに生きている。わたしはそれが嬉しくてたまらなかった。

 でも、やちよをそんな風に元気にできたのは、わたしじゃなかった。

 昔は、みふゆ。今は、いろはちゃん。今も昔も、やちよの一番近くにいられるのは、わたしじゃなかった。やちよの隣で、やちよを笑顔にしたいって想う気持ちは、絶対わたしが一番なのに。

 でも、これでいい。やちよが今楽しいなら、それでいい。

 わたしは仲間で、弟子だけど。それ以上じゃないから。


◆◆◆◆◆


「皿洗い終わんねー……何枚あんだよこれ」

「今日はお客さん少ないほうなんだから、文句言わない!」

「文句くらい言わせろよー……!」

 フェリシアは唸りながらザブザブとお皿を洗う。ウチは自動食洗機は導入してないし、油もいっぱい使うから、確かにやちよの家とかと比べると大変かもしれない。でも今は配膳とレジはわたしがやってるし、厨房にはお父さんがいるし、掃除とかはもう終わらせたから、フェリシアができるのはお皿洗いくらいしかない。

 お客さんの層はいつもと同じように、大体がおじいちゃんの代からの常連さん。あとは近くで工事してる人とか。遠くから万々歳の噂を聞きつけてわざわざやってくるような人は、当然いない。

 でも、珍しく一組だけ女の子二人組のお客さんがいた。この店に来る女の子なんていつもわたしの知り合いくらいしかいないから、ちょっと意外だった。これはチャンスだ。やちよとかももこにはいつも50点をつけられる料理だけど、もしかしたらこの子たちの舌には合うかもしれない。そうすれば若い子向け中華料理屋として万々歳を売り出せるかも!

「なんか……50点って感じ?」

「しっ!」

 ……肝心の評価は、そんな感じみたいだった。わたしは肩を落としながら、たった今会計を終えたサラリーマンのテーブルを片付ける。

「ところでさ、見た? 神浜ウォーカーの最新号!」

「いや見「見て! なんで見てないの!? これ! 見てないっておかしくない!?」

「オタクこわ」

 女の子二人組の片方がスクールバッグから雑誌を取り出した。神浜ウォーカーと言えば神浜市でもそれなりに有名。ひとつの市でありながら東京都の面積に勝るとも劣らない広大な神浜市に目をつけて、いろんな観光名所だったり、神浜市出身の有名人を纏めたりしている。万々歳には未だに取材に来たことがない。いつでもウェルカムなんだけどなあ。

「これ! 表紙!」

「あー、七海やちよだ」

 わたしの耳がぴくりと反応した。知ってる人の……それも大好きな人の名前が聞こえたから。

「見てこの脚!」

「エロいね」

「エロいけどそうじゃないの! エロいけど!」

 わたしは食器をカウンターまで運びながら、女の子たちのほうを横目で見た。片方の子が持ってる雑誌の表紙には、確かに大胆なスリットの入ったスカートを履く流し目のやちよが写っていた。でも風が吹いたり激しい動きをしてるわけじゃないから、むしろいつもより露出が少ないくらいだった。そう考えると、いつものやちよ脚出しすぎだなあ。風邪引いちゃいそう。それに……。

 思考が危ないところに行きそうになって、わたしは振り払うように首を振った。

「なんとこの店ね、時々七海やちよが来るっていう噂があるの!」

「はー、だからこんな微妙なところに来たと」

「生七海やちよだよ!? テンション低いよ!」

「生七海やちよエロそう」

「これだから性欲猿の男子は……!」

「女だよナメてんか」

 女の子たちは楽しそうに話していた。でも、これであの子たちの来店の理由がわかった。ウチの料理じゃなくて、やちよが目当てだったみたい。女の子にモテモテだもんね、やちよ。弟子として鼻が高い! ……なんだけど、純粋にウチの料理目当てじゃなかったっていうのと、やちよが人気っていうので、二つの意味で複雑。

 でも、わたしは知っている。やちよが今日万々歳に来ないってことを。

 女の子たちはそこから1時間近く粘っていたけど、エロい連呼の子の「これ以上油の臭い嗅いでたら吐く」という一声により、すごすごと帰っていった。あんなに待ったのに会えなかったのはちょっと可哀想だった。でも、心のどこかでは、やちよが知らない人と話してるところを見ずに済んでよかったとも思っていた。

「鶴乃ー、フェリシアちゃーん。そろそろ上がっていいぞー」

「よっしゃ!」

 お父さんが厨房から出てきた。フェリシアは2周目の洗い物に入っていて、ちょうど洗い終わったお皿を勢いよく水切り用のラックに叩きつけた。

「ちょっとフェリシア! もっと優しく置いてよ!」

「割れなかったんだからいーじゃんか!」

「割れてたかもしれないでしょ!」

「あーほら、鶴乃! やちよちゃんのところに行くんだろ!」

「行く!」

 やちよの名前ひとつで、わたしの頭から怒りは吹き飛んだ。我ながら単純だと思うけど、約束してからずっと楽しみにしてた日だから仕方ない。

 わたしはエプロンを脱ぎ捨てた。ほとんど同じタイミングで、フェリシアもエプロンを脱いでいた。

「いってきまーす!」「いってくるなー!」「いってらっしゃい」

 わたしたちは勢いよくお店を飛び出した。空は快晴、空気も澄んでる。

 お金がもったいないから、電車には乗らないで歩いていく。一人だったらトレーニングも兼ねて走ることもある。今日はフェリシアがいるし、競歩みたいに充分早足だから走らない。フェリシアと二人で歩くと自然に早足になる。普通のペースで電車を使ってやちよの家に行くのよりも、フェリシアとのペースで行くほうが早い気すらする。まあそれはないけど。

「今日来てたやつら、やちよのこと話してたな!」

 わたしの横を早歩きするフェリシアが、気持ち大きめの声で話しかけてくる。わたしは頷いた。

「やちよに会いたくて来たみたいだったね!」

「やちよなんて会ってどうすんだよ。写真のほうがガミガミうるさくねーのに」

「フェリシアは知らないかもしれないけど、やちよってすっごい人気あるんだからね! 知り合いって友だちにバレたとき、すごいサインねだられたなあ……やちよは恥ずかしがって書かないし……」

「なんか楽しそーに話すな」

「えっ?」

 わたしはほっぺたを触った。確かにちょっと口角が上がってた気がした。

「ほんと、やちよのこと好きだよな」

「……えっ!?」「うおっ!?」

 フェリシアの一言にわたしが驚いて、その声にフェリシアが驚いた。だってしょうがないじゃん。まさか、よりによってフェリシアにさえバレてたなんて!

「いっつもししょおーとか言って犬みたいに張り付いてるじゃんか。飼い主として好きなんじゃねーの? もしかして、自分より強いから実は嫌いなのか!?」

 ……よかった。さすがにフェリシアには気付かれてないみたいだった。

「はぁぁ……」

「なんだよ、でかいため息ついて」

「ううん、フェリシアだなあって。それより、わたしはやちよのペットじゃないから! 誇り高き一番弟子!」

「同じだろ!」「違うよ!」

 言い争いがヒートアップするにつれて、早歩きはほとんど走るみたいになっていった。周りから見たら奇妙に映ったと思う。

 やちよのことは、もちろん魔法少女の師匠としても、同じチームの仲間としても好き。それは間違いじゃない。飼い主じゃないけど。でも、わたしはそれらとは違う意味で、やちよが好きだった。

 初めて会ったとき、わたしはその強さに惹かれた。爪先にすら届かなかった。最強を目指す者として、強さの源を吸収したいと思った。最初はそれだけだった。

 みかづき荘に通ううちに、綺麗で、可愛くて、優しくて、意地悪だと知った。わたしはそのすべてに惹かれた。今まで感じたことがない胸の高鳴りに襲われた。そういった感情に疎くて、クラスの子たちがあの子はいい、あの子は無理って楽しそうに話すのについていけないわたしだって、これがなんなのかはすぐにわかった。

 わたしは、やちよに恋をしたんだ。


◆◆◆◆◆


「来たよー!」「来たぞー!」

 みかづき荘の玄関ドアを勢い良く引き開けると、青空みたいに澄んだ匂いがした。うちの油の匂いも好きだけど、お父さんには悪いけどやっぱりやちよを感じられるこの匂いのほうが好き。最近色んなことの判断基準にやちよがいる気がして、ちょっと笑っちゃった。

 フェリシアと一緒にドタドタとリビングに向かう。そこには、きっとさっきまで何枚ものチラシとにらめっこをしてたやちよと、ペンを持って家計簿を覗き込むいろはちゃんとさなちゃんがいた。

「はいはい、いらっしゃグフッ!?」

 やちよの口から呻き声が漏れた。わたしが走ってやちよに飛び込んだからだ。

「ししょーししょーやちよししょー! 約束忘れてないよね!」

 そう言ってわたしは頬っぺたをやちよの頬っぺたに擦り付ける。弟子になったばっかりの頃はこれをなんの下心もなしにしてたなんて、自分のことなのに信じられない。やちよのおかげでちょっと純粋さを失っちゃった気がする。

「忘れて、ないわよ……。今ので頭から吹き飛びそうになったけど……」

「よっし! じゃあ忘れる前に行くよー!」

「ちょっ、ちょっと!」

 やちよのひんやりすべすべな腕を掴んで、玄関まで取って返す。一刻も早く特訓がしたかった。一刻も早く、やちよと二人きりになりたかった。

「いろは、二葉さん! ネオカミハマスーパーよりカミハマスーパーのほうが安いわ! ポイントに騙されないで!」

 わたしに腕を引かれながら、やちよがリビングドアで立ち止まった。いろはちゃんたちは慣れた様子で手を振っていた。……ううん。いろはちゃんの表情には、ほんの微かに寂しげな色があったような気がした。う、と胸の奥に何かがつっかえた。でも、やちよとの特訓の時間だけは、たとえいろはちゃん相手でも……いろはちゃん相手だからこそ、譲れない。

 やちよはいそいそとヒールの靴を履いて(いつも思うけど歩きにくくないのかな)みかづき荘を出た。直射日光に目を細める。

「今日の特訓はどこでやる?」「いつものとこでいいんじゃない? 希望ある?」「ううん、大丈夫!」

「そう。ところで……」

 いつもの場所を目指して歩きながら、ふと、やちよは下を見た。その視線を追うと、やちよの不健康にも思えちゃうくらい白い腕。……わたしが掴んでいる。

「いつまで掴んでるつもり?」

 完全に無意識だった。神様にだって誓えるけどわざとじゃない。でも、意識しちゃうと離すのがやけに躊躇われてくる。

「……だって、やちよ逃げちゃうかもしれないもん」

「逃げないわよ……。それに、こう掴まれてると連行されてるみたいで……」

 わたしが掴む手を、やちよは緩く振り払った。だんだん同じ温度になっていたやちよの熱が消える。わたしは必要以上に不満そうな表情にならないように注意した。ここで気付かれてしまったら、変態だと思われちゃうかもしれない。……実際そうなのかも。ししょーのせいだ。

「まだ、こっちのほうがいいわね」

 そう言って、やちよはわたしの手を握った。わたしは3回くらい瞬きした。それでやっと、手を握られたという事実を脳が認識した。ぶわわって顔が熱くなってくる。ダメだ、バレちゃう。身体からせり上がってくる熱と嬉しさを、必死に喉のあたりで押し留めようとする。でも、こういうの苦手だから絶対耳は赤くなってるし、口も変な感じになってると思う。

「鶴乃?」

 やちよが首を傾げた。それだけの所作だって、今のわたしには危ない。ごまかさないと。どうやって? なんでもないって言う? 怪しすぎる。それなら。

「うん! こっちのほうがいい!」

 わたしは腕をぶんぶんと振った。「鶴乃!?」ってやちよが慌てる。

 嘘をついてもきっとバレてしまう。そこでわたしが選んだのは、勢いで誤魔化すことだった。わたしの性格的にも、この反応はおかしくないはず。やちよも特に疑ってる様子はない。よかった。

「早く行こ、やちよ!」

「わかった、わかったから! 振るのをやめなさい!」

 わたしは言う通りに腕を振るのをやめた。でも、手は離さなかった。やちよも今度は振り払わなかったから、わたしたちは手を繋いだまま歩いた。


◆◆◆◆◆


 数十分歩いて、わたしたちは目的の廃墟についた。この一帯は神浜市の急激な都市開発についてこれなかったらしく、建設途中で棄てられたらしい。その後、地元のヤンキーとかギャングに荒らされて、壁のコンクリートはスプレーで落書きされ、隅っこにはどこからか拉致されてきたゆるキャラのキューちゃんオブジェが逆さまに刺さっている。キューちゃんは玉ねぎみたいな頭から触手みたいな胡瓜が何本も生えてるのが特徴なのに、あれじゃ裸になったピンク色の人間でしかない。

 神浜市にはそういう棄てられた場所がいくつもあって、その特徴は東側で顕著とは十七夜の談だった。硬い土を踏みしめて、無造作に生えっぱなしになっている雑草に足を取られないように注意しながら、わたしたちは中央に向かう。

「キューちゃんってさ、ちょっとキュゥべえに似てるよね」「さすがにキュゥべえが可哀想よ」「そうかなー? 確かに頭から刺さってもあんなに気持ち悪くはならなそうだけど」「キューちゃんは頭が刺さってなくても気持ち悪いわよ」「えー」

 くだらないことを話して、わたしたちは中央に着いた。中央と言っても、実のところ少し東側にずれている。最初来たとき、ここに小石で土俵が作られていたから、なんとなく中央扱いを始めただけ。今は危ないからってことで清掃業者……メンバーわたしとやちよ……の手で敷地の外に処理された。

 ふぅ、と息を吐く音の一瞬後、やちよの全身が光った。瞬きしないうちに、やちよの身体はいつもの青い魔法少女服に包まれている。わたしも変身して、やちよと直立姿勢で向かい合った。そして、同じタイミングで両手を合わせ、お辞儀した。これをしたほうが雰囲気が出るって主張して、わたしが半ば無理矢理に導入した。ちょっと真面目な気持ちになるから効果は出てるんだと思う。挨拶は大事。

 やちよは魔力をこめていつものハルバードを作り出す。ひとつ違うのは、ハルバードの先端が木製なこと。特訓なんかで命を落としたくないというやちよの正論によって、武器がちょっと安全な感じに変わった。わたしは変身して扇を生成する。わたしの扇は変わらないけど、その代わり炎は出さない。クリーンヒットすればかなり痛いだろうけど、炎で焼き切られるよりはマシだと思う。

 やちよは中腰姿勢になって、ハルバードを後ろに構えた。わたしを手招きする。わたしは身を沈めて、全身に力を込めた。そして、バネみたいに跳んで襲いかかった。

 右の扇を振り下ろす。やちよはハルバードで逸らす。すかさず左の扇を振り下ろす。やちよは側転回避しながらハルバードを下から上へ振り上げた。わたしは連続バック転で回避して、コンクリート柱に垂直に着地した。身体を捻りながら柱を蹴る。

 わたしは空中で橙色の竜巻みたいに水平回転した。そのままやちよに迫る。やちよはハルバードでこれをガードした。無視出来ない衝撃のはず、だからやちよは顔をしかめて3メートルくらいノックバックする。そのすぐ背後にはコンクリート柱。このチャンスは逃せない。わたしは着地したときのよろめきを強引に耐えて、やちよに肉薄する。左扇で横に薙ぐ。やちよは、消えた。

 違う。やちよは地面スレスレまで身を沈めていた。だから一瞬見えなくなった。ハルバードがわたしの足を払う。さっき強引に体勢を立て直した分、足元は不安定だった。地面を舐めそうになるのを、受け身をとってなんとか仰向けに倒れる。代わりに後頭部が柱に衝突した。すごく痛い。視界に火花が散ってる。

 火花が取り払われると、わたしの喉元にはハルバードが突き付けられていた。……一敗。わたしは横に転がってハルバードの線上から外れ、立ち上がって再び扇を構えた。左扇を前に、右扇を後ろに。向かってくれば左扇で捌いて、右扇で断ち切る必殺の構え。やちよは全身の力を抜くみたいにその場でステップを踏んだ。一瞬後、稲妻のような速度で、蛇のような軌跡を描いて接近してくる。どの方角から攻めてくるのか予想がつかない。だけどここで慌てればより状況は悪くなる。わたしは五感全てに集中する。……右後ろ。

 わたしは振り向きながら、右扇をうちわみたいに振り上げた。風で牽制して、左扇で本命の攻撃をするつもりだった。だけど、やちよはそこにはいなかった。背後から圧力を感じる。最初の感覚はわたしに隙を生み出させるためのブラフだった。わたしはそちらを見もせずに……というよりも振り向く暇すらなく、バックキックを繰り出した。手応えはない。それどころか、突き出した足を横から抱え込まれた。身体が浮いて、そのまま投げ飛ばされる。二敗。わたしは転がって起き上がる。やちよはバトントワリングみたいに扇をクルクルと回転させて、体内の魔力を練り上げている。

 わたしは扇を閉じて、二刀流のように持った。やちよの右後ろの柱に向かって跳んで、更にその柱を蹴ってやちよへの攻撃圏内へ。着地して右扇を突き出す。やちよはハルバードで防ぐ。左扇を突き出す。やちよは避け、ハルバードをわたしの足へ。左扇を立てて防ぎ、右扇を顔へ。やちよは屈み込みながら後ろ回し蹴り、メイアルーアジコンパッソ。わたしは上体を反らして回避、体勢を戻しながら両扇を振り下ろす。やちよはハルバードで斜めに受け、衝撃を逸らす。

 お互いにその場からほとんど動かず、最小限の動きで応酬を繰り返す。周囲の風景は霧に隠れるみたいに白くなっていき、音すらも余分が取り去られ、やちよとわたしだけの世界が訪れた。高速回転するニューロンに反して、心はより凪いでいた。余計なことを考える余裕すらあるほどに。

 わたしは特訓の時間が好きだった。この時間だけは、やちよがわたしだけを見てくれている。わたしのためだけに動いてくれている。周りにも間にも誰もいない、わたしたちだけの時間。わたしとやちよだけのコミュニケーション。いろはちゃんにも、みふゆにも邪魔できない、わたしだけの特別。


◆◆◆◆◆


「ダメだってフェリシア! 今はまだ早いってば!」「いいだろ! こんな生意気なやつオレが……!」『ザッケンナコラー!』『アバーッ! サヨナラ!』「あ……」「だから言ったじゃん! というかフェリシアのせいでわたしまで狙われてるし!」「し、仕方ねーじゃんか!」

「はい、そこまで」

 無慈悲な手がわたしたちの視界に降りてきて、スマートフォンの画面が見えなくなった。そんな一瞬の妨害でさえこの状況じゃ死活問題になる。わたしはすぐに首を横にずらしたけど、その時には既に結果が出ていた。わたしのキャラは敵の必殺技を喰らって死んでいた。「「あああああ!」」わたしとフェリシアの叫び声が被る。

「何するのさやちよ!」「そーだぞ! せっかくいいところまで行ってたのに!」

「本当にいいところだったのかは知らないけど、もう終わりよ」

 やちよはおしゃれな壁掛け時計を指さした。短針が北北西の方角を差している。……11時。わたしはスマートフォンを見て、もう一度時計を見た。11時。いつの間にかゲームを始めてから1時間近くも過ぎていた。

「寝なさい」

 やちよは腕を組んでわたしたちを見下ろしている。確かに、フェリシアはまだ成長期だから寝たほうがいいかも。わたしだって明日学校だし。

「まだや「寝るよ!」「えー!」

 言い募ろうとするフェリシアの首根っこを掴んで、部屋に連れて行く。もう歯磨きもお風呂も済ませてるから、後は部屋に放り込むだけ。

「うがー!」

 抵抗も虚しく、わたしたちはフェリシアの部屋の前に着いた。ドアを開けても、フェリシアはぐずぐずとして入ろうとしない。いつものことだけど。

「やちよはまだ起きてるじゃんか、なんでオレばっかり……」

「やちよししょーだってそろそろ寝るよ。でもやちよはもう成長期終わってるから」

「胸のか?」

聞こえてるわよ!

 下から響いた声に、わたしたちは数cm飛び上がった。確かに聞こえてもおかしくない距離だけど、怖すぎるよししょー。

「……おやすみ」

 フェリシアはやちよのほうを見ないようにしながら部屋に入って、ドアを閉めた。多分今日はおとなしく寝ると思う。11時までゲームしてたのが悪いとはいえ、ちょっと可哀想。

「あなたも早く寝なさい」

「んー……」

 もうちょっとだけ話してたいな。そう思って、わたしはやちよのほうを見下ろした。その時、やちよは別の方向を見ていた。その視線の先にいたのは、いろはちゃんだった。いろはちゃんもやちよも、優しい笑みを浮かべていた。脳を直接揺さぶられたみたいな感覚、頼りない足場。わたしは逃げるように「おやすみ」って言って自分の部屋に入った。

 ベッドに潜りこんで、体内に溜まった黒いものを吐き出すように、長いため息をついた。いろはちゃんが洗面所からリビングに戻ってきて、やちよがそっちを見てた。ただそれだけ。それなのに、なんでこんなにショックを受けてるんだろう。

 きっと今日特訓に付き合ってくれた嬉しさで、ちょっと勘違いをしちゃったんだ。やちよがわたしを見てくれる、なんて。ううん、見てくれてる。それが一番じゃないってだけ。わたしはやちよに落ち込んでほしくない、元気でいてほしい。だから、いろはちゃんがやちよを精神的な面で支えてくれるなら。わたしはただ弟子として……最強の魔法少女になって、魔女の脅威からやちよを守れたら……それだけで……。

「鶴乃さん」

「うわっ!?」

 誰もいないはずの空間から声。わたしは慌てて起き上がろうと上体を起こした。そして、額に鮮烈な痛みが走った。呻きながらベッドに再び倒れ込む。横からも呻き声が聞こえた。額を押さえながら覗き込む。

「うぅぅ……」

 そこにいたのはさなちゃんだった。額を押さえて右に左に悶えている。わたしより頭柔らかそうだもんね。痛みが引いてきた。立ち上がって手を差し伸べる。

「大丈夫?」

「は、はい……」

 さなちゃんは手を掴んで起き上がった。ほとんどわたしの手に負担をかけないで、自力で立つところがさなちゃんらしい。

「ごめんなさい、お休み中のところに……」

「ううん、大丈夫!」

 驚きと痛みで眠気はすっかり覚めちゃったけど。時計を見ると2時。丑三つ時だ。いつの間にかそんなに経ってたんだ。

「……実は、その。ご相談したいことがあって」

「ほ? 相談? ……わたしに?」

「はい。鶴乃さんに、です」

 わたしはまたまた驚いた。理由はふたつある。まずひとつは、わたしは滅多に相談相手に選ばれないから。ももこには面と向かって「鶴乃って力技で解決させようとしてきそうだしなあ」って言われた。その後ちょっと喧嘩になった。今でも納得いってない。

 二つ目は、さなちゃんはわたしよりもいろはちゃんに懐いてると思ってたから。相談なんて大切なことの相手にわたしを選ぶなんて、意外だった。考えられる可能性としては……いろはちゃんには話しにくいこと、とか。でも、それならわたしじゃなくてもやちよを選べばいい。やちよに相談する子は多いみたいだし、きっとわたしよりも的確なアドバイスをくれると思う。

「やちよじゃなくて?」「鶴乃さんに」

 即答するところを見ると、やっぱり意味があってわたしを選んだみたいだった。わたしは頷いた。何にせよ、仲間が困ってるなら何もしないわけにはいかない。おせっかいが過ぎる、って怒られちゃうこともあるけど。

「外で、お話します」

 わたしはさなちゃんと一緒に外に出た。もしかしたらさっきの声で起こしちゃったかもと思ったけど、みかづき荘の寝静まった空気からすると、みんなおとなしく眠ってるみたいだった。

「寒いね~!」「そうですね……」

 わたしは手袋をした手に白い息を吐いた。お気に入りの茶色のモコモコしたアウターを着てきたけど、パジャマの上からだとやっぱり防寒性が足りない。さなちゃんも大きめの白いセーターを着てるけど同じみたいだった。少し走って温まりたいけど、そういう雰囲気じゃないからぐっと我慢する。

「えっと、それで。相談だよね」

「……はい」

「任せて! この最強の魔法少女、由比鶴乃がエミリー先生みたいにババッと解決しちゃうから!」

 勇気づけるようにガッツポーズを作る。さなちゃんはじっとわたしを見て、目を瞑って深呼吸をした。1回だけじゃダメだったみたいで、もう2、3回していた。それでようやく覚悟が決まったのか、目を開けてわたしを再びまっすぐに見た。

「恋の、ご相談なんです」

「……ほ?」

 わたしは首を傾げた。こい、恋。恋のご相談。わたしに。……わたしに? わたしに、恋の、ご相談?

「え、っと……えっ!? わたしに!?」

「はい。鶴乃さんにです」

「でも、ほら、そういうのわたし向いてないから! ししょーのほうがきっといいこと言えると思うし……」

「やちよさんでは、駄目なんです」

 やちよの名前を出した瞬間、さなちゃんの声が重くなった気がした。わたしは口を閉じた。さなちゃんは俯き、言いにくそうに声を絞り出す。

「それに、きっと鶴乃さんとわたしは似ていますから」

 さなちゃんと、わたしが似てる。性格のことを言ってるわけじゃないとはすぐにわかった。でも、わからない。何を言いたいのか。だから、それ以上は。

「やちよさんのこと、好きですよね……?」

 一瞬息が止まる。さなちゃんの問う「好き」は、フェリシアが誤解してるような仲間とか師匠としての好きじゃない。見透かされてる。

 さなちゃんは、わたしが自分と似てるって言った。どういう意味で? さなちゃんもやちよのことが好きってこと? 違う。ここまでヒントを用意されれば、クラスメイトの恋愛話に疎いわたしにだってわかる。

「私、いろはさんのことが好きなんです」

 ああ、やっぱり。

 月が雲に隠れた。わたしは目を逸らしてアウターの首元を直すふりをする。

「でも、いろはちゃんは」

 さなちゃんは頷いた。さなちゃんもわかっていたみたいだった。それはそうだよね、と納得する。わたしがやちよを見るように、さなちゃんもいろはちゃんを見ていたんだから。

「いろはさんには、もうやちよさんがいます」

 さなちゃんは空を見上げた。月はもう隠れている。

「もし、私がこの想いを通そうとするなら……。略奪なんてしたくありません」

 わたしは、どうなんだろう。やちよを略奪してでも自分のものにしたいのかな。……したくない。……そう言って胸を張れない。それでわたしのほうを向いてくれるならって、考えてしまう。

「いろはさんが幸せなら、それでいいんです。運良く付き合えたとして、いろはさんが今以上に幸せになれるとは限りません」

「さなちゃんは、優しいんだね」

 本心からの言葉だった。わたしなんかと違って、ちゃんと相手のことも考えられてる。でも、さなちゃんは首を横に振った。

「それでもやっぱり、私の隣で笑ってほしいとも思ってしまうんです。私から遠いところ、誰か違う人の隣じゃなくて……私の隣で……」

 さなちゃんの声が震えた。わたしは手を伸ばそうとして、躊躇った。さなちゃんが今一番慰めて欲しい相手はわたしじゃない。余計なお節介。……わたしはさなちゃんを抱きしめて、頭を撫でた。「ありがとうございます」ってさなちゃんはお礼を言うけど、この行動はさなちゃんのためを想ってのものと言えば、半分は嘘になる。もう半分は、わたし自身のため。さなちゃんの今の境遇は、細かいところはどうあれ大枠ではとても似ている。わたし自身をこうやって慰めたかっただけだ。

「もし、私がいろはさんともっと前に出会えていたら。やちよさんよりも前に、出会えていたら……。何か変わったんでしょうか……」

 さなちゃんの頭を撫でながら考える。変わらなかったかもしれないと。さなちゃんはわたしじゃないけど、わたしはいろはちゃんよりもずっと前から、やちよと知り合いだった。それでも結局、今やちよの隣に立っているのはいろはちゃんだ。やちよの隣に立つなんて、一度だってできていない。

 空を見上げる。いつの間にか月は再び雲からその姿を現して、わたしたちの気持ちなんてお構いなしに光を投げかけていた。そういえば、これくらい寒くて、月が綺麗に見える日だったな。

 わたしが、やちよに襲われたのは。


◆◆◆◆◆


 みふゆが突然いなくなって、やちよが自暴自棄になっている時期。みふゆのことも心配だったけど、その頃のわたしは誰よりもやちよが心配で、よく様子を見に行っていた。これだけは胸を張って言えるけど、わたしのほうを振り向いてほしいみたいな打算なんて全然なかった。まるで死に場所を探しているようなやちよが見ていられなくて、ただいつもみたいに元気になってほしかった。メルが死んで、みふゆにいなくなられた上に、やちよにまで手の届かないところに行かれたら、わたしは狂ってしまっていたと思う。だから必死だった。やちよを支えようとすることで、不安定に揺れようとする心を保っていた。

 それがやちよにとっては目障りだったらしい。当然だと思う。やちよは二人目の仲間を失った直後に、ずっと隣同士で歩いてきた相棒……彼女……まで失ったんだから。そんなときに、何もわかってない人間がしつこく絡んできたら、わたしだって怒ると思う。

 だから、ある日わたしが性懲りもなく訪ねたとき、やちよの感情の水瓶は溢れて、それが引き金になったかのように爆発した。

 やちよはわたしを自室のベッドに押し倒した。「そんなに私のことが好きなのね。嬉しいわ。本当に最悪よ」と笑った。泣きながら。わたしが呆然としている内に、やちよはわたしの上を脱がしてキャミソール姿にした。わたしはハッとしてスカートの中に手を入れようとするやちよに抵抗した。でも、今思えばその抵抗も本気だったのか疑わしい。本気で嫌だったなら、殴ったり蹴飛ばしたり、何より魔法少女に変身でもすればいい。そのときのわたしがしたのは、精々弱い力でやちよを押し退けようとしたり、スカート越しにパンツを押さえたりしただけ。そんな抵抗、存在しないようなもの。やちよはわたしのパンツをベッド脇に放り捨てた。そして、わたしにキスをした。

 嬉しかった。

 やちよのキスは乱暴で、歯はガチガチ当たって唇が切れそうになるし、スポブラの内側に入り込む性急な指も肌を引っ掻いてきて痛かった。何より、わたしの意思なんて関係なく無理矢理犯されている。でも、その時のわたしには痛みすら嬉しかった。何もかもを拒絶しているときのやちよが、わたしだけにくれたもの。きっとわたし以外の誰にも向けないもの。わたしの濡れた“そこ”は、やちよの指をすんなり受け入れた。

 やちよの下で与えられる痛みと快感に喘ぎながら、わたしはいつしかやちよの背中に腕を回していた。もっと、ってはしたなくせがむみたいに。その時のわたしは、もしかしたら今までの人生で一番幸せを感じてたかもしれない。でも、ひとつだけ心残りがあるとしたら。泣きながらなんかじゃなくて、もっとやちよにも幸せそうな顔をしててほしかったかも。


◆◆◆◆◆


 あちこちにガタが来てる自転車を限界速度で漕ぐ。お父さんも宅配に使ってた年代物の自転車はキリキリと悲鳴を上げている。買い換えるお金がないわけじゃないけど、ちょっと性能に問題があるほうがトレーニングにはなるだろうから、きっと壊れるまではこのままだと思う。頑張ってほしい。

 角を曲がってあとは家まで直線といったところで、家の前に見覚えのある姿を見つけた。水みたいに流れる青い髪。やちよだ。予想外のタイミングに驚いて心臓が跳ねる。でも嬉しい。ペダルに体重をかけてペースを上げる。やちよの側もわたしに気付いたようで、警戒するように足を止めた。少し半身になってる姿勢からすると、割と本気でソウルジェムからハルバードを取り出すか考えてるんだと思う。さすがに今日をこの自転車の命日にしたくない。わたしは全力で両手を握って急ブレーキをかけた。後輪がちょっと浮いた。予想と同じくらいの制動距離で、自転車はやちよの大体1m前で止まった。

「やっちよししょー! どうしたの? 万々歳の中華が食べたくなった!?」

 店の横に自転車を停める。ぱぱっと鍵をかけて、すぐにやちよのもとへ取って返す。

「もうしばらくは結構よ……一週間に一回は絶対食べてるし……」

「えー! じゃあせめて、うちにやちよのサイン飾らせて! きっとお客さんいっぱい増えるから!」

「あなたそういうのやらないって言ってなかった?」

「冗談だよー。それに、そういうのは100点……いや、80点って言ってくれる人にしてもらわないと意味ないから!」

「日和ったわね」

 むぐぐ。

「それより、なんでうちの前にいるの?」

「単なる仕事帰りよ。近くで撮影してたの」

「ふーん。スタジオで光当てられてるばっかりじゃないんだね」

「どういうイメージよ。それじゃ」

 やちよは踵を返そうとする。わたしは飛びかかってやちよの背中に縋り付く。「この大型犬!」って声がやちよから聞こえた。

「寄っていってよー! ししょーには特別炒飯大盛りサービスするから! 杏仁豆腐もあげる!」

「いらないってば」

「ああん」

 やちよは無慈悲にわたしを引き剥がして、すたすたと歩いていってしまった。わたしはブンブンと背中に向かって手を振る。

「今日も行くからねー!」

 やちよはこっちを振り返らずにひらひらと手を振った。わたしは満足してふんふんと鼻を鳴らす。そして、ふと周囲が暗いことに気付いて、空を見上げた。空はまるで埃まみれの床みたいに一面の灰色で、今にも降ってきそうだった。スマートフォンを取り出して天気予報を呼び出すと、朝見たときと同じように晴れの予報だった。この天気はどう見ても晴れじゃない。珍しく外れるのかな。

 そういえば、やちよは傘を持ってなかったような気がする。届けに行ったほうがいいのかな。……うーん。

「よっ!」「わあっ!?」

 突然背中を叩かれる。わたしは反射的に戦うための前傾姿勢を取って、背後から不意打ちを仕掛けてきた相手に振り向きながら警戒した。そこにいたのは、近所に住んでいる常連のおばちゃんだった。

「アッハッハ! まだまだ修行が足ンないね!」

「もー! 何の用?」

「昼メシだよ。遅くなッちまったけど、食わなきゃ力が出ないからね。ほら、アタシを接客しな」

「はいはい……。いらっしゃいませー、お一人様ですねー……」

 わたしは灰色を横目に見上げながら店に入った。きっと大丈夫、天気予報は晴れだったんだから。それに、やちよがみかづき荘に帰るまでに降らなければいいだけなんだし。

 わたしのそんな楽観的な考えは、10分後に見事に打ち砕かれた。


◆◆◆◆◆


 大粒の雨が窓を叩く。ウチは建物が古いから店内に音がよく響く。雨漏りしてないのだけが唯一の救い。わたしは早足で下の階に降りてお父さんに報告する。

「上全部閉まってたよ!」

「おお、ありがとな鶴乃。にしても、見事に天気予報外れたなあ」

「だねー……」

 お父さんは追加注文の炒飯を炒めながら、上のほうに設置されたテレビを見た。そこには別にニュースは映ってなくて、よくわからないドラマをやっていた。わたしは家用の傘立てを一瞥した。今のわたしの心の中は、すぐにでも走ってやちよを追いかけたい気持ちでいっぱいだった。

 ウチからみかづき荘までの距離を考えると、やちよは多分まだ新西駅にすら着いてない。今から全力ダッシュで追いかければ充分追いつける。新西駅まで走るよりは、さすがに電車に乗ったほうが早い。そこまで判断できれば充分だ。

「お嬢ちゃん、お水!」

「セルフサービス! お父さん、ちょっと出てくる!」

「おい、鶴乃!?」

 おばちゃんを無視して傘を引っ掴んで、わたしは店の外に出た。雨の激しさからするとにわか雨みたいだった。しばらく待てば止むのかもしれない。でも止まないかもしれない。やちよを助けなきゃ。そんな衝動に導かれるまま、わたしは傘を差して駅まで全力で走り出した。


◆◆◆◆◆


 落ち着かない。じっとしていなきゃいけないなんて、本当に落ち着かない。走っていったほうが絶対に気持ちは楽だ。トレーニングにもなる。でも、今新西駅に向かってるのはやちよのため。だから我慢しないと。ドア横の位置に立ちながら、そう自分に言い聞かせる。それでも気持ちは逸る。きっとこういうところをやちよは落ち着きがないって呆れるんだろう。

 深呼吸して窓の外を見て、持ってきた傘を見下ろす。傘から垂れた雫が局所的な水たまりを作っている。水たまりはひとつ。当然だ、傘は一本なんだから。……あれ? わたしは持ってきた傘の本数を数えた。右手に一本。左手には無し。……合計、一本。

 わたしは驚愕の声を上げそうになるのをすんでのところで堪えた。傘が一本しかない。なんで? 家を出るときは確かに……いや、なかった。最初からわたしは傘を一本しか持ってきていなかった。……どうしよう。引き返して傘をもう一本取ってくる? そんな時間はない。傘を渡して、わたし自身は雨に濡れて帰る? きっと……ううん、絶対やちよが許さない。ビニール傘を買う? やちよはそういうのを無駄な消費って嫌ってる。……となると。

「相合傘」

 わたしは無意識のうちに呟いていた。幸い、周りの人は気付いていない。

 やちよと、相合傘。このまま順当に行くと、きっとそうなる。でも、やちよと相合傘だなんて、そんなの。別に相合傘自体が嫌いなわけじゃない。フェリシアとかさなちゃんとだったら全然抵抗なくできる。でも、やちよ相手は勝手が違う。やちよと二人、小さすぎる傘の下で歩調を合わせてゆっくり歩く。きっと当然のように腕とかが触れ合う。やちよの顔がすぐそこにある。想像しただけで顔が熱くなってくる。絶対いつもの表情は保てない。どうしよう、どうしよう、どうしよう!

『次は新西駅、新西駅。お出口は……』

 わたしは顔を上げてドア上のディスプレイを見た。いつの間にか新西駅に着いていたみたいだった。心の準備なんて全然出来ていない。でも、今考えないといけないのはわたしのことじゃない。やちよを雨宿りとか、濡れて帰ったりとかで困らせちゃいけない。わたしは電車を早足で降りて改札を出た。視線を巡らせてやちよを探す。

 やちよは見つからなかった。改札の外はトイレの中まで隅々まで探したけど、姿はどこにもなかった。まだ改札内にいるわけでもないはず。まさか、走って帰った? ……あるかもしれない。魔法少女の脚力なら、ここからみかづき荘までなんてすぐだ。

 そうだ、スマートフォンで連絡を取ればいい。最初からそうすればよかった。そう思ってスマートフォンをポケットから取り出したけど、すぐにダメだと気付いた。やちよは撮影とか大学とかがあるから、普段は震えすらしないマナーモードにしている。メッセージを送っても電話をしてもきっと気付かれない。

 仕方ない。わたしは人目につかないところまで移動して、魔法少女の脚力で屋根に跳び乗った。そのまま屋根から屋根へ跳び渡る。傘は差さない、というより風で壊れちゃうから差せない。わたしは雨に濡れながら、みかづき荘までの道に沿って屋根を跳び渡った。

 そして、見つけた。

 薄いピンク色の傘から覗く遠いあの背中は、確かにやちよのものだった。……そして同じ傘の下、ピンク色の長い髪を揺らして歩く姿は、いろはちゃんのものだった。

 そっか。いろはちゃんもわたしとおんなじことを考えたんだね。そうだよね。やちよが傘持ってないの、いろはちゃんだったら気付くよね。いろはちゃんはちゃんとやちよの傘も持ってきたんだ。偉いなあ。わたしなんてうっかりして自分の傘だけ持ってきちゃったんだよ。でもやちよはどうしてその傘を差さないの? どうして畳んだまま手に持ってるの? それにこっちって帰り道とはちょっと違うルートだよ? こんなひとけのなくて狭い道歩いてたら危ないよ?

 やちよたちは電信柱の横で止まった。やちよはその陰にいろはちゃんを引き込んだ。そして、顔を近付けて。

 ああ。

 わたしは視力がいい。子供の頃から一番小さい黒丸の欠けてる場所だって見えたし、今だって学校の視力検査は全問正解できる。視力も最強、そう言ってフェリシアとどっちが遠くのものまで見えるか勝負だってした。その勝負はフェリシアが魔力を使ってズルをしたところでお開きになった。だから、やちよといろはちゃんが瞼を閉じていて、唇を触れ合わせているところもしっかり見える。みふゆの幻惑魔法の悪戯? 確かに昔は時々みんなにかけて遊んでた。今のみふゆはマギウスの翼にいるから、そんなことはできない。魔女が見せた幻覚の線もない。そんな魔力どこにもない。わたしの目に映っているのは、紛れもない、現実だ。

 傘が手から滑って道路に落ちていった。拾わないと。わたしは落ちた方向に向かおうとして、濡れた瓦に足を取られて転んだ。そのまま屋根から転がり落ちて、道路に全身を強かに打ち付けた。周りに人通りがないのは幸いだった。目撃されて面倒なことにならずに済む。ああでも家の中から見られてるかも。まあいいや、大丈夫ですって言い張れば。実際この程度の痛みなんて魔法少女ならなんともないし。

 全身に力が入らない。ソウルジェムを見る。うん、まだ大丈夫そう。つまり単純に気分の問題。なら大丈夫。身体を強いてなんとか起き上がって、傘を拾い上げる。差す気分にならない。このまま新西駅まで戻ろうか。こんなびしょ濡れの乗客が来たらみんな嫌だろうな。やっぱり歩いて帰ろう。どのくらい時間かかるかな。いいや、どうせ魔法少女だしなんとかなる。とりあえず帰ろう。わたしの家に。万々歳に。みかづき荘は、わたしの家じゃない。それにしても、涙、流れないなあ。

 どうやって万々歳まで帰ったのか、うまく思い出せなかった。その後の記憶といえば、万々歳に帰ったらお父さんが腰を抜かすんじゃないかってくらい驚いて、お風呂に入れられて、まだ夕方なのに寝かされたくらい。わたしの頭は色んな思考でぐちゃぐちゃになっていて、何もまとまらなかった。それでも、ひとつだけ確かな感情があった。

 それは怒りだった。

 わたしはスマートフォンの写真アプリを起動して、昔のほうから順番に眺めた。最初の頃はみふゆがいた。みふゆとやちよが二人で写っている写真を見ると、どれも二人の距離が近かった。物理的にじゃなくて、精神的に。この間に入るなんてできっこない。二人もさっきのいろはちゃんたちみたいにキスをしてたのかな。それ以上のこともしたのかな。そうだよね、何年も一緒にいたんだもんね。もう少しスクロールすると、いきなりみふゆが写真から消えて、いろはちゃんが現れた。途中の時間がぽっかりと空いているのは、やちよが荒れていた時期だから。わたしがやちよに襲われたのもこの時期。そのことは別に恨んでない。あの頃のわたしに出来たことなんて、精々あれくらいだった。

 いろはちゃんが写っている写真は、最初の頃は距離が開いていた。時間が経つごとにどんどん距離は狭まっていって、最後のほうはみふゆと同じくらいの距離感になっていた。もちろん精神的な距離が。いろはちゃんともしたのかな。してるんだろうな。やちよって可愛い子にはすぐ手を出すもんね。自画自賛かな。

 どうしていろはちゃんなんだろう。どうしてわたしじゃないんだろう。荒れていた時期のやちよの心を溶かすことができたのは、わたしじゃなくていろはちゃんだった。いろはちゃんには感謝してる、言葉じゃ表せないくらいに。でも、どうしてなの。どうしてそのままやちよを取っちゃうの。どうしていろはちゃんだったの。どうしてわたしじゃなかったの。わたしだって、元の優しいやちよに戻ってほしいって気持ちは負けてなかったのに。いろはちゃんよりずっと前から、やちよのことを知ってたのに。ずっと、やちよの隣に立ちたいって思ってたのに。ずっと、ずっと前から、我慢してきたのに!

 理不尽な怒りかもしれない。でも、限界だった。許せない。やちよの何もかも、全部。全部。全部。

 起き上がる。窓の外を見る。もう雨は止んでいて、暗い空に月が浮かんでいた。狂ってしまいそうなくらい美しい月。外着に着替えて下に向かう。

「おい、鶴乃? 大丈夫か……?」

 お父さんが心配そうに声をかけてくる。わたしはお父さんに向かって笑った。

「大丈夫! 心配させてごめんね、ちょっとやちよのところ行ってくる!」

「あ、ああ……気をつけて、な……」

 靴を履いて店を出る。雨は上がってるけど、色々考えたいし走る気分じゃない。ポケットの中のスマートフォンを確認して、わたしは駅の方角に向かって歩いた。


◆◆◆◆◆


 みかづき荘の前まで来た。敷地内に入って、チャイムを鳴らさずにドアを開ける。いつも大体この時間に来るから、鍵はかかってない。澄んだ青空みたいなやちよの家の匂いに混じって、美味しそうなお味噌汁の匂いが漂ってくる。今日の食事当番はいろはちゃんだったっけ。リビングに向かう。予想通り、キッチンにはいろはちゃんの姿。……と、やちよ。フェリシアとさなちゃんはスマートフォンのゲームで遊んでる。……あ、やちよがわたしに気付いた。一番最初に気付いてくれるんだね。嬉しいな。

「鶴乃? 来たら挨拶しなさいって何度も言ってるでしょう」

「ただいまししょー!」

「あなたの家じゃないでしょう」

 本当にね。

 みんなが口々にわたしに挨拶する。わたしはいつものスペース、二人がけのソファの上を陣取るとスマートフォンを取り出して、フェリシアとさなちゃんに話しかける。

「二人とも何してるの!? 今のイベント?」

「おう! このイベント明日までなんだけど、オレやるの忘れててさー……あと2万ポイント稼がねーと」

「私はもう終わってるんですけど、期間限定のドリンクが余っていたので……」

「そこまでよ。みんな、お皿並べて」

 アプリを起動しようとしたところでやちよのストップがかかる。ちぇー、タイミング悪いなあ。渋々立ち上がってキッチンに向かう。

「……ん?」

 食器棚からお皿を取り出していると、背後からやちよの声がした。振り向くと、やちよが眉根を寄せてわたしを見ている。

「どうかした?」

「あなた、お昼は違う服着てなかった?」

 そんなところにも気付いてくれるんだ。それともそれが普通なのかな。まあいいや、わたしが今嬉しいのは変わらないから。

「雨で濡れちゃったから着替えただけだよ?」

 首を傾げて、さも何もありませんでしたって言うような態度を見せる。やちよは瞬きをすると、料理に戻るみたいに冷蔵庫を開けた。

「そう」

 ああ、バレちゃったな。そう直感する。どこまでバレたかな。多分、わたしの調子が悪そうってくらい? 調子が悪い理由まではバレてないと思う。いくら完璧超人なやちよだって人の心は読めないもんね。別に読まれててもいいけど。それはそれで、やちよはわたしのことがなんでもわかるってことだもんね。

「うわっ落とす、落ちた!」「だいじょ、ひゃあっ!?」

 フェリシアが手を滑らせてわたしのマグを落とす。それを助けようとしたさなちゃんもまたお皿を一枚落としてしまった。こういうのって二次被害って言うんだっけ。わたしは宙を舞うお皿を片手でキャッチして、回転するマグの持ち手をタイミングを測って口で咥えた。被害ゼロ。

「お……おおー!」「凄いです鶴乃さん!」

「ふへふふへほふんふ!」それほどでもあるよ!

 両手にお皿、口にマグを咥えてリビングに向かう。お皿は別にいいけど、せめてマグは回収してほしいなあ。このくらいで攣る顎じゃないけど。

 背中に視線を感じる。きっとやちよがわたしを見てる。疑わしげな目で。もしかしたら気のせいかも。ううん、きっと見てる。嬉しいな。


◆◆◆◆◆


「風呂は済ませた、歯磨きも済ませた……なら、あとはゲームだー!」

 フェリシアはスマートフォンを高く掲げて、ぐりんと首をわたしのほうに向けた。わたしは人差し指を立てて、キザったらしく指を振る。

「わたしは健康志向になったの。だからごめんねフェリシア」

「なぁっ!? お……おい、嘘だろ鶴乃!」

 フェリシアが愕然として肩を落とす。そんなに意外かなあ。

「さなも早寝派閥だし、やちよは遅いけどあんましゲームやんねーし、オレは誰とゲームしたらいいんだよ!」

「早寝っていうゲームができるじゃない」「わぷっ!」

 やちよがフェリシアの頭に手を置いた。いいなあフェリシア。

「みんな寝るんだからちょうどいいじゃない。私は起きてるけど」「ずりーぞ!」「じゃああなたが家計簿つける? 税金払う?」「ぐぬっ!」

 フェリシアはしばらくやちよと睨み合っていたけど、やがて「おやすみ……」って言ってとぼとぼと階段に向かった。餌を貰えないと理解した牛の後ろ姿ってあんな悲しい感じなのかな。

「それでは鶴乃隊員も寝ます! おやすみー!」

「おやすみ」

 わたしに与えられた部屋に向かってずんずん歩く。元気を身体の表面に貼り付ける。もう少しの辛抱だ。

『鶴乃』

 不意にやちよの声が頭の中に響いた。テレパシーだ。普通に話しかけてこなかったってことは、みんなに内緒にしたい話ってことかな。わたしは階段を上りながらテレパシーを返す。

『なに?』

『後で……そうね、みんなが寝静まったら私の部屋に来てくれる?』

『……うん、わかった!』

 わたしもそうしようと思ってたしね。

 部屋に入って電気を付ける。少し考えて、やっぱり消した。電気が付いてたら起きてるってみんなにバレちゃう。その代わりに遮光カーテンを開けて月明かりを取り込む。明るさなんてたかが知れてるけど、今のわたしには眩しすぎるくらい。最近は月が綺麗な日が多いなあ。思い出しちゃってお腹の奥が熱くなる。これじゃ月に興奮してるみたい。

 わたしはスマートフォンの写真アプリを開いて、写真の一枚一枚を眺めた。やちよが写っていない写真だって当然あるけど、その写真だってやちよと過ごした時間の大切な一部。でも一番大切なのは写真のないぽっかりと空いた時間。わたしがたった一度だけやちよの力になれた、貴重でかけがえのない時間。

 ねえ、やちよ。わたし、やちよのためだったらなんでもできるよ。もし死んでほしいって頼まれたら死ねるかも。そりゃあただじゃ死なないよ。他に取れる手が何もなくなって、誰かが犠牲になることでしかやちよが幸せになれないとか、そういう状況じゃなきゃ嫌だよ。わたしだって死にたくないもん。万が一そういう状況になって、やちよに泣きながら頼まれたら……ああ、死んじゃうなあ。わたしからししょーにできる恩返しなんてそれくらいしかないもんね。ちょっと呪っちゃうかもしれないけど。……やちよは色々なものをわたしにくれたよね。でも一番欲しいものだけは絶対にくれなかったよね。それがもらえなかったら他の全てに意味なんてないんだよ。やちよ、わたしの愛に報いてよ。ねえ、やちよ。やちよ……。


◆◆◆◆◆


 外から物音がしなくなってから1時間待った。わたしは起き上がって、そっとドアを開ける。誰かが動いてる気配はない。ドアを閉めながらやちよにテレパシーを送る。

『今から行くね』

『ええ』

 やちよの部屋まではすぐだ、10秒もかからない。音を立てると他の子たちが起きちゃうかもしれないから、ノックなしでドアを開ける。

 やちよはベッドに腰掛けて神浜うわさファイルを開いていた。背後の窓から覗く月。雑誌に載ってもおかしくないくらいの完璧な構図。これを自然にやってのけちゃうんだから、やっぱりやちよはすごい。

「ウワサっていろはちゃんが来る前からいたの?」

 やちよの隣に腰掛けながら尋ねる。やちよはファイルを閉じて横に置いた。

「ええ。その頃は少なかったけど、何体かは一人で頑張って倒したわ。別に、それはいいのよ」

 やちよはじっとわたしの目を見た。パジャマ姿でも月明かりを受けるやちよは絵になるなあ。

「無理してるでしょう」

「どうして?」

 わたしは嘯いてみせる。特に意味はない。

「あなたが嘘なんてつけるわけないじゃない。それも私相手に」

 ふうん。やちよはそう思ってるんだ。

「話してみなさい」

 やちよはわたしの頭を撫でた。手から伝わる体温が心地良い。

 ねえ。

「やちよ」

「なに?」

 大好き。

 わたしはやちよの両手首を掴んで、ベッドに押し倒した。何が起きたのかわかってないのか、やちよは目を白黒させていた。そうだよね。わたしだって最初はそうだったもん。

 やちよの唇にわたしの唇を重ねる。できるだけ乱暴に。歯がガチガチと当たって、唇が切れてちょっと血の味がした。どっちの血だろう。まあいいや。その血を舐め取って、やちよの舌と絡め合わせる。

「っ!」

 肩を強く押されて、わたしは無理矢理引き剥がされた。眼下には怒りと驚きとその他いろんな感情が入り混じった表情のやちよ。あ、唇の周りがわたしたちのよだれでてらてら光ってる。いつかの学校帰りの女の子、あなたは正しいよ。だって今のやちよ、すっごくエロいもん。

「なんの、真似よ……!」

 やちよはわたしを睨みつけている。ひどいなあ、そんなに怖い顔しなくてもいいのに。だって。

「最初にしてきたのは、やちよじゃん」

「え……?」

「昔、一回だけこうやってわたしのこと襲ったよね」

 やちよは目を見開いて固まった。その顔色はどんどん青褪めていく。やちよにとって良い記憶なわけないもんね。忘れたかったのかな。そんなの許さない。

「わたしは覚えてるよ。この先もずっと。だって、やちよのこと好きだもん」

 緊張してるのか、やちよの息が浅くなる。顔を逸らされる。こんなときでも、やちよはわたしを見てくれないの?

「こっち見て」

 やちよの顔を掴んで強制的にこっちを向かせる。やちよは怯えるみたいに震えた。ぞくり、と背筋が粟立った。

「ごめんなさい」

 か細い声だった。やちよの瞳は潤んでいて、目尻から涙が一筋垂れて落ちた。「ごめんなさい」ってやちよはもう一度繰り返した。うーん、謝ってほしいわけじゃないんだけどなあ。

「別にいいよ。嬉しかったもん。わたしがやちよに対して今までにできたことって、結局あれくらいだったし」

「そんなこと……!」

「そのかわり」

 わたしはやちよの首筋に顔を寄せた。そして、思いっきり歯を立てた。やちよが悲鳴を抑えたのを感じる。

「今度はわたしがやちよのこと襲うから。この一回だけじゃなくて、何回も」

 わたしは自分で作った痛々しい歯型を、舌を伸ばして舐めた。ちょっとしょっぱい。

「あのときのやちよみたいに一方的にはしないよ。一緒に気持ち良くなりたいもん」

 やちよのパジャマのボタンを上から順番に外していく。キャミソールは黒、パンツも黒かあ。大人っぽいなあ。やちよは固まったまま動かない。耳元で「脱がせて」って低い声で言うと、面白いくらい震えた。そんなに怯えられるとショックなんだけどなあ。やちよの手がわたしのカーディガンを脱がす。そういえば今日の下着ってどれ着てたっけ。お父さんがわたしのタンスから適当に選んだやつかも。着るときもよく確認しなかったし。変なのだったら恥ずかしいなあ。

 お互い裸になって、わたしは身体をやちよに押し付けた。やちよの身体は服の上から見るよりも更に細くて心配になる。やちよに再びキスをして、胸同士を擦り合わせる。ピリピリとした弱い刺激が胸の奥に走る。やちよの息が緊張とは別の感覚に浅くなり始める。やちよも気持ちいいんだね。嬉しい。

 やちよのお腹をゆるゆると撫でてから、ベッドの上に放られてるやちよの手を取ってわたしの腰に置かせる。「ほら」って促すと、やちよの手が恐る恐るって感じに腰を撫で始める。あのときみたいに強い刺激じゃないけど、これはこれで緩やかに気持ち良さが増えていく感じがする。気を抜くと声が漏れちゃいそう。

「ねえ、……わたしの抱き心地、どうかな?」

 耳元で囁いて、そのまま耳を唇で挟みこむ。「んっ!」って押し殺した声が聞こえた。可愛いなあ、やちよ。今ので内ももに感じる湿気が増した気がする。どっちのだろう。両方のかな。

「みふゆと、いろはちゃんとも、かな。二人と比べて、っ……どう?」

「や、めて……」

 やちよは顔をわたしから逸らした。まあ、もういいけど。顕になった首元に口付けて、吸い付く。やちよの身体が微かに強張ったのを感じた。撮影とかあったら見えちゃうね。この位置だと隠すのも難しそう。頑張ってね。お腹を撫でていた手を下に動かして脚の間に滑り込ませると、想像していたよりも濡れていた。やちよにされたときのことを思い出しながら、そのときみたいに激しくならないよう、優しく表面をなぞる。やちよの喉から押し殺した声が漏れ始める。その声ごとわたしのものにしたくて、わたしはやちよの口の奥に舌を伸ばした。それと同時に、指を一本中に挿し入れる。「んんっ!」ってくぐもった声と、わたしの下で強張る身体。いつも綺麗なのに、こんなに可愛くて、やちよは本当にずるい。大好き。


 こんなことをして何になるんだろう。きっと何にもならない。それどころか破滅だ。みんなに、いろはちゃんにバレたら。わたしはもうみかづき荘にいられない。マギウスの翼にでも行こうかな。……気が乗らない。やっぱり独りになりたいな。最強になるのも、別にいいや。最強になったって、やちよはどうせわたしを一番にしてくれないし。おじいちゃん、お父さん、ごめんね。わたしには万々歳を再興させられないや。

 ああ、早くバレないかなあ。この後悔と空虚さと罪悪感から早く逃げ出したいな。今のわたし、なんだかあの荒れてた頃のやちよみたい。破滅したがってる。


 ねえ、やちよ。

 わたし、やちよのこと大好きだよ。

 あの日やちよに会えたこと、運命だって思ってる。

 あの日から、やちよはずっとわたしにとっての一番だよ。

 ねえ、やちよ。

 大好きだよ、やちよ。

 ねえ。やちよ。

 やちよ……。




desperate 終わり

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