落ちる影の三角形
なずなはこんな子じゃない!!!!!
Q. オメガバース世界な理由は? A. ……趣味!
狭いアパートの一室に、乃莉ちゃんと私の抑えた吐息と、粘性の高い水音、そして肌と肌がぶつかり合う音が響いている。私たちの息の熱っぽさに、部屋の温度は実際よりも10℃くらい高いような錯覚すら覚える。
「なずな……っ」
背中側の乃莉ちゃんが、私の名前を呻くように囁いた。苦しげな声とは正反対に、腰は別の生き物みたいに強く私に叩きつけられている。隣の部屋は今は誰もいないけど、壁の厚いアパートじゃないから、2部屋先でも聞こえちゃうかもしれない。乃莉ちゃんはアルファの本能に流されるままで気にする余裕はないみたい。でも、私も止める気になんてなれなかった。私だってオメガの本能に流されてる。それに、乃莉ちゃんが私だけを見て、私だけに夢中になってる。そんな幸せな時間に水なんて差せない。
「なずな、もうっ……」
つらそうな乃莉ちゃんの声。そろそろなのは私も同じだった。ドロドロになった思考の中、私は何度も頷いて、声を我慢するためにシーツを噛む。うなじにかかっていた髪が首の横から頬に張り付く。乃莉ちゃんが背中に覆い被さってくる。背中に普段の何倍も熱くて汗ばんだ肌を感じる。耳元に獣みたいな荒い息遣いを感じる。
来て、来て。私は顔を布団に押し付ける。お腹の奥がギュッと熱くなって、乃莉ちゃんを締め付ける。お腹から全身に気持ちよさと震えが伝播する。そのすぐ後に、乃莉ちゃんも震えた。少しして、乃莉ちゃんの熱が私の中から引き抜かれたのを感じた。乃莉ちゃんとの繋がりが断たれたみたいで少し寂しくなる。
「なずな」
さっきよりも穏やかな、それでも未だ熱のこもった声に呼ばれて、私はそっちを向いた。乃莉ちゃんの顔が目の前にあった。キスされて、当然のように舌が入ってくる。絡め合わせて今度は口で深く繋がりながら、私は心の中の微かな落胆を感じていた。
「どうかした……? もしかして、避妊薬飲み忘れたとか?」
乃莉ちゃんが唇を離して私の目を覗き込んだ。乃莉ちゃんの瞳は澄んだ湖みたいに綺麗だった。
「ううん、ちゃんと飲んだよ。……乃莉ちゃんってエッチも上手だし、本当にすごいなぁって」
「それ、絶対褒めてないでしょ……それとも私が経験豊富そうに見えるってこと?」
乃莉ちゃんの目が責めるようにすぼめられる。違う、そういうつもりじゃないのに。なんて弁解すればいいんだろう。何も浮かばないのに、口だけは何かを言おうとして「えっと」とか「違くて」とか意味のない言葉を漏らす。
「なずな慌てすぎー」
乃莉ちゃんは面白そうに笑って、また私にキスをした。怒ってないみたい、よかった。安堵はしたけど、やっぱり落胆は消えてくれていなかった。
「なずなって後ろからされるの好きだよねー」
今日もまた、乃莉ちゃんはうなじを噛んでくれなかった。
番になってくれなかった。
◆◆◆◆◆
私は最初から、乃莉ちゃんが好きだった。
言葉を交わす前から、ううん、もしかしたら姿を見る前から、私は乃莉ちゃんに惹かれていた。その時はまだ自覚なんてなくて、同じ1年生として親近感が湧くとか思っていただけだった。第二の性の話題が避けられていたのもあるから、乃莉ちゃんがアルファということさえ知らなかった。
その後、もしかしたら好きなのかも、と思うことは何度かあった。それが確信に至ったのは、初めて乃莉ちゃんが泊まりに来た日。その時の私はホームシックになっていて、見かねた乃莉ちゃんが慰めるために来てくれた。乃莉ちゃんのかっこよさと優しさに触れて、私の好きは固まった。
乃莉ちゃんが寝た後、私は我慢できなくなってキスをした。でも、その時も私は鈍臭かった。唇を離すと、乃莉ちゃんの目が開いていた。乃莉ちゃんは起きていた。
頭が真っ白になった。弁解しようとした。弁解しようがなかった。起きていたんだから。そのうち、涙がぼろぼろ流れてきた。傷つけちゃったかもとか、そういう相手を思いやる気持ちなんてなかった。ただ利己的な、乃莉ちゃんに嫌われたくない、その思いでいっぱいだった。でもそもそも、そんな心配は必要なかった。
乃莉ちゃんが私にキスをした。何が起こったのか脳が理解できなくて、目を白黒させるだけだった。乃莉ちゃんに、私も好きって言われた。それでやっとわかって、もっと涙が溢れ出してきた。
聞いてみたら、乃莉ちゃんも最初から私のことが気になっていたみたいだった。もしかしてと思って、私は自分がオメガなことを打ち明けた。すると、乃莉ちゃんはアルファだと打ち明けてくれた。その時、私たちはひとつの可能性に思い至った。もしかしたら、私たちは運命の番(つがい)かもしれないと。
今では、私はそれを確信している。乃莉ちゃんは私の運命の番だと。そうでもなかったら、きっと乃莉ちゃんは私なんかに振り向いてくれなかった。運命の番だからこそ、振り向いてくれた。だからこそ、番になってほしかった。この繋がりを確実なものにしたかった。
でも、乃莉ちゃんはしてくれない。この歳じゃまだ早いとか、こういうのはもっと考えないとって。乃莉ちゃんの言うことも理解できる。一度番になってしまうと、その関係の解消はオメガ側からは行うことができない。どれだけアルファから離れたいと思っても、本能がさせてくれないらしい。反対に、アルファ側からならいつでも行える。飽きてしまったとかそういう理由でも、アルファは一方的に番を解消できる。そして、どんな理由であっても、その際にオメガが受ける心の傷は相当に大きいらしい。乃莉ちゃんはそれを気にして、番になってくれない。乃莉ちゃんは本当に優しい。
今までは、それでもよかった。乃莉ちゃんの優しさを感じられたから。 番だけが私たちの繋がりじゃない、そう思ったから。……でも、最近はそうも思っていられなくなってきた。あの子が……茉里ちゃんが来てから。
茉里ちゃんが乃莉ちゃんを狙っている。その可能性に気付いたのは少し前。特にどの行動が気になるとかではなくて、単純に、そんな雰囲気がしたからというだけ。乃莉ちゃんに話せばきっと一蹴される、その程度の些細な違和感。そんな些細なものにさえ私は過剰反応して、茉里ちゃんを必要以上に警戒してしまう。私は心の狭い人間。それでも、乃莉ちゃんだけは、渡せない。絶対に……。
◆◆◆◆◆
「お泊まり会?」
乃莉ちゃんは意外そうに聞き返してきた。私は頷く。
「普通科の友達同士でやろうってなって……だから今日は」
「私たちのお泊まりはできないってことね。オッケー。それにしても……」
乃莉ちゃんが私のお泊まり用かばんを見て、おかしそうに笑った。
「出発直前に律儀だよねー、なずなって」
「だ……だって、こういうのは直接伝えたほうがいいと思って……!」
「向こうについた後でも、メッセージとか送ってくれたらそれでよかったのに」
「……でも本当にそうしたら、なんでもっと早く教えてくれなかったのって拗ねそう」
「なッ……!」
乃莉ちゃんが顔を赤くした。図星だったみたい。赤い顔がおかしいのと、理解できている嬉しさに、思わず笑ってしまう。
「もー、ほら! お泊まり行くんでしょ!」
照れ隠しをするように、乃莉ちゃんは私の肩を押す。私は最後に、と口を開きかけて……言葉を飲み込んだ。
茉里ちゃんに気を付けてね。
そんなこと、言ったところでまともに受け取ってもらえるはずがない。それに、単純に私の勘違いの可能性も高い。だから、気にすることなんてない。
「……いってきます、乃莉ちゃん!」
「いってらっしゃい、なずな! 楽しんで!」
乃莉ちゃんはひだまり荘の敷地を出るまで私を見送ってくれた。私は友達の家に向かって歩いて……足を止めた。
頭の中で、ずっとぐるぐる疑念が渦巻いてる。本当に茉里ちゃんは乃莉ちゃんに対してなんにもない? 私が家を空けている内に、なんにも起こらない? 疑念は大雨が降る前の雨雲みたいにどんどん重く、思考を埋め尽くしていく。
私は踵を返して、ひだまり荘への道を戻る。どうせいつか明らかにしなきゃいけないこと。なら、今日明らかにしちゃえばいい。
…………。
103号室のチャイムを押す。『はーい』とインターフォンから声。
「茉里ちゃん」
『なずなさん? 今開けまーす』
声が途切れて、代わりにドアの奥から足音が聞こえてくる。ガチャリ、とドアが開けられて、向こう側から茉里ちゃんが顔を出す。
「あれ、乃莉さんいないんですね。めずらしー」
真っ先に出てきたのが、乃莉ちゃんの名前。私は拳を強く握って負の感情を見せないようにする。
「ごめんね、ちょっとだけお話がしたくって」
「はぁ……? とりあえずどーぞ」
茉里ちゃんの後に続いて部屋の中に。そんなに長くお話するつもりはなかったけど、座椅子に座った茉里ちゃんと机を挟んでクッションに腰を下ろす。
「それで、お話って?」
茉里ちゃんが首を傾げる。私は尋ねようとして……ためらった。私の質問が原因で、ひだまりのように心地良い仲に亀裂が入ってしまったら。そもそも考え過ぎで、茉里ちゃんが何も悪くなかったとしても、疑われていた事実に良い気分にはならないはず。
……それでも。私は乃莉ちゃんを思い浮かべる。乃莉ちゃんを渡すわけにはいかない。
「乃莉ちゃんのこと、どう思ってる?」
「乃莉さんですか? 結構ハイスペックですよね。運動神経良いし、デジタルにも強いし、顔も良いし……我の強いところも高ポイント!」
茉里ちゃんは人差し指を立てて楽しそうに言った。口の中が渇く。喉から声を絞り出す。
「好き?」
「好きですよ?」
脳を直接殴られたような衝撃が襲ってきて、一気に足元が頼りなく思えてくる。トランポリンの上にいるみたいにグラグラする。視界の焦点を茉里ちゃんになんとか合わせ続けようとする。
「先輩として!」
茉里ちゃんが付け加える。揺れが少し収まるけど、まだ完全に収まったわけじゃない。
「恋、とかは」
「しませんよ! だってアルファ同士ですよ? ないない!」
茉里ちゃんはおかしくてたまらないとでも言うように、顔の前で手を振った。……詳しいね。
「どうして、乃莉ちゃんがアルファって知ってるの?」
茉里ちゃんの口元から、笑みが消えた。目だけが変わらず細められている。
「知ってたらおかしいですか?」
「そういうの、あんまり自分から広めることでもないから」
「興味本位で訊いただけです。普通に答えてくれましたよ?」
「……そっか」
「なんでそういうこと気にするんですか? 乃莉さんに関するお話がしたかったっていうのはわかりましたけど」
「それは、私が乃莉ちゃんと運命の番だから」
言葉は反射的に発せられていた。頭が熱い。きっと冷静じゃない。止める隙もなかった。ううん、別に止める必要もなかった。事実なんだから。茉里ちゃんは目を見開いていた。心の中に浮かんだ優越感に、自分の矮小さを思い知らされる。
「……知ってますか? 運命の番って」
茉里ちゃんは妖しげに目を細めた。口元には薄い笑み。
「思い込みの可能性もあるって」
私は茉里ちゃんに掴みかかった。……その光景を、頭の中で思い浮かべた。実際にはしていない。手のひらに食い込んだ爪から血が出そうなくらい拳を強く握って、全身を巡る怒りを乗せた血流を感じている。
「茉里ちゃんに乃莉ちゃんは渡さない」
「結構ですよ。“まだ”欲しくないですもん」
茉里ちゃんは2文字を強調した。私は立ち上がって玄関に向かう。知りたいことは充分わかった。もうここにいても意味はない。
「乃莉さんによろしくお願いしますねー!」
後ろからの声。もう反応すらしない。靴を履いて外に出る。私は乃莉ちゃんの部屋の方向を見た。友達とのお泊まりはやめて、やっぱり今日も乃莉ちゃんとお泊まりしようかな。……でも、こんな状態で行ったら、きっと乃莉ちゃんは心配する。心配かけたくない。茉里ちゃんは今日、行動を起こすかな。……ううん、大丈夫。乃莉ちゃんはきっと靡かない。運命の番は、私だから。
本当に靡かない? 番にもなってくれないのに? 浮かんできた嫌な思考を振り払おうとする。乃莉ちゃんが私みたいな鈍臭い子よりも、もっと可愛くて優秀な茉里ちゃんみたいな子のほうが好きだったら? 最愛の人のことも、こうやって疑ってしまう。信じることができない。それは私が駄目な子だから。
私は友達の家への道を急ぐ。ちょっと遅れるかもって連絡しないと。それと、これはメッセージには書かないけど。お泊まり会に集中できなかったらごめんね。
◆◆◆◆◆
茉里は右手で頬杖を付き、左手は指で机をトントンと叩いていた。やがて立ち上がり、家を出て103号室へ。チャイムを鳴らす。
『はーい』
「乃莉さーん。乃莉せんぱーい」
『相変わらず先輩をナメたような……』
乃莉の呆れ声が途切れる。少しして、ドアが開かれる。
「で、なに?」
「お部屋でお話したくってー」
「ふーん?」
乃莉は踵を返して部屋へと戻る。茉里は靴を脱いで後ろに続きながら、その背中を凝視している。
「お茶いる?」
「お茶より相談を聞いてくれたほうが嬉しいですね!」
「あっそ。相談って?」
乃莉の態度はすげないものだ。大した話ではないだろうと高を括っているのだ。茉里はその目の前に立つ。乃莉は目を瞬いた。茉里は大きく息を吸い、
「私このままじゃ殺されるんですけど!」
乃莉の肩を強く揺さぶった。
「ハァ!? なんの話!?」
乃莉は茉里の手を引き剥がし、ぎょっとした。茉里の顔からは「私マジでヤバいです」と言わんばかりの必死感が溢れ出ていた。
「殺されるんですって! なずなさんに!」
「なずなに? まっさかー!」
乃莉は笑った。数秒して笑い声はぱたりと止む。
「……マジで?」
「マジです」
「多分それ茉里が悪いでしょ」
「後輩を信じようって気持ちはないんですか!」
「アンタは先輩を敬おうって気持ちがないでしょ!」
「ありますよ! でも運命の番を信じてるなんて言われたら、否定したくなるじゃないですか!」
「うわ……」
乃莉は心底呆れた表情をする。
「確かにそういう説もあるけどさ……」
「だって、生まれた時から運命の相手が世界に一人だけいるって時点でありえないのに、その相手と巡り会えるとか! 思い込みですよ! フェロモンがもたらしたファンタジー!」
「たとえ本当にそうでも、なずなは信じてるんだから……相性がいいのは本当だし。その様子だと、他にも変なこと言ったんじゃないの」
「言ってませんよ。ただ、ちょっと面倒になって(「先輩に面倒とか言わない」と乃莉)冷たい態度は取っちゃったかもですけど」
「……アンタが悪い」
乃莉は玄関を指差した。帰らせようと言うのだ。茉里は頬を膨らませる。
「乃莉さんだって、なずなさんのこと不安にさせてるじゃないですかー」
「それは……」
「どうせ二人のことだから、なずなさんは番になってほしいのに、乃莉さんがヘタれてなってあげないとか。そういうのですよね」
「なんで当てるの……」
乃莉は顔を赤くする。
「早くなってあげないからなずなさんが不安になって、私が乃莉さんのことを好きとか勘違いされるんです」
「ああ、なんで茉里がなずなに殺されそうになってるのかやっとしっくり来た。というか、私のこと好きなの?」
「なずなさんのほうが好きですね! ……って言ったらどうします?」
「そういうとこだよ……」
乃莉はため息を吐いた。
「まあ、なずなにはちゃんと説明するから。安心して帰って」
「約束ですよ? 私の命がかかってるんですからね?」
「大げさだって」
乃莉は真面目に取り合わない。茉里は玄関へと向かう素振りを見せ……振り向く。
「ところで、乃莉さんはアルファ同士とかオメガ同士ってどう思います?」
「……? 別にいいとは思うけど……」
「すごい他人事って感じー……じゃあ」
ずい、と茉里は顔を近づけた。乃莉は気圧されて仰け反る。
「私に告白されたら、どうします?」
「……どう、って。茉里ってアルファだっけ」
「そうですよ。乃莉さんと同じ」
茉里はじっと目を覗き込む。なんとなく居心地が悪くなり、乃莉は目を逸らした。
「アルファ同士とか以前に、私にはもうなずながいるし。だから茉里はない」
「……ふぅん」
低い声だった。茉里は無表情のまま乃莉を凝視している。張り詰めた空気に我慢できなくなり、「というか!」乃莉は茉里の顔を掴んで距離を離す。
「そういう笑いにくい冗談とか、ほんと禁止!」
「あ、バレましたー?」
茉里はケロッとして笑った。乃莉は立ち上がって茉里に後ろを向かせ、そのまま玄関に向かって肩を押す。
「ほら、さっさと帰る!」
「えー! お泊まりしましょうよー!」
「い、や!」
抵抗虚しく、茉里は靴も満足に履けないまま外へと追い出された。「なずなにもう迷惑かけないように!」と言い残し、乃莉はドアを閉めた。
「あーあ、2年生の先輩たちは2人とも短気だなあ」
茉里はぼやきながら101号室へと戻る。玄関のドアノブを掴み、一度103号室のほうを見やる。
「“まだ”、いいですけど」
弓のように弧を描く口元。茉里はドアを開け、その向こうへと消えた。ガチャリ、と鍵の閉まる音。後には静寂が残る。