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死者の記憶が遠ざかるとき:石垣りん「弔辞」

 今日の読売新聞朝刊「編集手帳」で、石垣りんの詩「弔辞」が引用されていた。この詩には、「職場新聞に掲載された105名の戦没者名簿に寄せて」という副題がついている。「戦争が終わって二十年」と詩の中にあるから、1965年の作品なのだろう。

 私がこの詩と出会ったのは、三善晃作曲「レクイエム」を聴いたとき。2007年11月にCDが出ているから、大学1年生のときということになる(ちなみにこの曲にはピアノリダクション版もあるが、新垣隆氏によるもの。おぉ、「ゴーストライター」などと呼ばれる前から私は存じ上げていたのだった)。この「レクイエム」を聴くたびに、心臓がドキドキする。おっかないのだ。反戦歌だし「鎮魂歌」であるのだが、音楽と使われる詩(の断片)には死者の怨念が渦巻き、決して浄化されることなくこの世に残り続ける。死者が生者に問いかけ続ける、それも厳しく。そんな具合で、25分ぐらいの演奏はほぼすべてが不協和音、合唱は絶叫し、オーケストラは呻る。

 石垣りん「弔辞」が出てくるのは、第2楽章の最後。詩の一部が使用されている。「あなたでしたね」「西脇さん 水町さん」「どのようして死なねばならなかったか 語ってください」「行かないで下さい どうかここに居て下さい」…音楽に浸っているとただただ身につまされるのであるが、詩をすべて読むとそれはそれで、またまた深く考え込んでしまうのである。

 死者の記憶が遠ざかるとき、
 同じ速度で、死は私たちに近づく。 

(中略)

 戦争の記憶が遠ざかるとき、
 戦争がまた
 私たちに近づく。
 そうでなければ良い。 

 「105名の戦没者名簿に寄せて」とあるが、「105名の戦没者」には一つ一つの人生が、いのちがあったわけだ。そんな一人一人の方々の「記憶」を遠ざけないために、何をすればよいか?

 「社会科」教員というのは、その仕事に携わることのできる存在である。教員のよいところでもあり責任が重いところは「伝える相手(=生徒)が確実にいてくれる」ということだ。道端でいくら大きな声で演説したとしても耳を傾けてもらえる可能性は低いが、「教員が」「授業という場で」という条件が付けば、伝わる可能性は大いに上がる。石垣りんの詩に、どう応えていくのか。そんなことを考えていた。

 そもそも読売新聞「編集手帳」に今日、石垣りんの詩が引用されたのは今日がいわゆる「終戦記念日」だからであるが、8月15日を終戦記念日としているのは日本ぐらいで、他の国々では9月2日ないし3日が「対日戦勝記念日」とされているようだ。そもそも、8月15日以降も戦闘が継続した地域はあったし、当時樺太にいた私の祖母は、日本に引き上げるのに1年半ぐらいかかった。ソ連占領下におかれ大変だったと言うが、そういう人たちにとっては別に8月15日で「終戦」したわけではない。

 大学の何かの講義で「8月15日を『終戦』とすることで、どのような考えが発生すると思いますか?」と問われたことがあって今も印象に残っている。8月15日を「終戦記念日」として語ることによって、捨象されてしまう歴史もあるし、それを捨象したままではいけないだろう。その「記憶」をどう引き継いでいくか。探求は果てしない。

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