とどのつまり、目を見られるか。
結婚して一年が経ち、思うことは一つ。
「愛とは真に際限がないもの。」である。
世界一大好きな人と結婚をし、寝食を共にするようになって一年。
彼の生活の大半を私という人間が寄り添えていることが奇跡のように思える。
寝る時も、食事をする時も一緒なのはもちろんだが、
食器を洗ったり、洗濯物を干したり、掃除をしたり、
ここの部屋に似合うカーペットはこれだな、とかを考えることまで一緒なのだ。
尊い瞬間の連続だ、と感じる。
私の両親が結婚前の同棲に反対だったため、結婚するしか一緒に住めなかった私からすると、
本当に素敵な瞬間な訳で、その瞬間が愛おしく、さらに彼を好きになるのは水が流れるが如く自然。
そう、相も変わらず彼への愛情は増すばかりなのである。
しかしそうは言っても、ちょっとしたぶつかり合いはあるものだ。
家事経験がほとんどない彼と家事全般やってきた私とでは、
家事の段取りや手際の良さは違って当然。
そして、その分配のウェイトが傾くのも当然。
私の思うタイミングで動いてくれないことに苛立ったこともあるし、
そんなことで苛立ってはいけないと自己嫌悪することもあった。
彼が少しずつ家事を覚えてくれていると分かっていても、注意してしまってお互いにムッとしてしまうこともあった。
それでも、お互いに目を見ることをやめたことは無かった。
生活を共にするということは、生活の基盤を共有することであり、
そこには地味で現実的なことばかり。
結婚するまでの「綺麗なところだけ見せよう」は無くなる。
恋人関係であれば、そうして然るべきとも思っていたが、
結婚をした夫婦関係ともなると、生活を営む仲間として向き合うべきなのだ。
それが自分の母を思い出す言動だったり、彼の母を思い起こさせる言動だったりもして、
自分も嫌気が差すし、彼も嫌気を差す。
しかし、そうしたやり取りこそが、家族になるということであり、
お互いが育ってきた家族が交わり、二人の新たな家庭をつくるということなのだろう。
恋人としての見つめ合いはそれこそ、腹の底から湧き上がるような熱情が主成分だったが、
夫婦としての見つめ合いは、お互いの心の素がさらけ出されるようでもある。
日々の生活で互いに仕事や家事をこなすことに忙殺されて、
些細な言動に気が立つこともある。
そうした中でも、目を見て話すこと、これが大切なことだったと痛感する。
気が立ってしまう時は、なぜか相手を見ようとしなくなる。
特に私はそうしてしまいがちである。
彼が顔を覗き込んできたとしても、気づかないふりをして、目を合わせないことも多々あった。
しかし、それが一日、二日続くと二人の間の空気が澱んてくる。
澱めば澱むほどに、言いたいことが言えなくなり、
心に溜め込んだ鬱憤は実態よりも濃く、存在感を放って心を縛る。
滲み出した鬱憤は彼の嫌なところばかりを絡め取る。
時間を頼りにこの鬱憤を薄くしようと努めても、
意外にもこの時点で限界だったりする。
そうした時に、彼はいつも「目を見て」と言う。
陰鬱とし気持ちの時にそんなことを言われるとむかつきもするが、
目を見た途端に涙が溢れ出して来るのである。
彼に察して欲しい気持ちと、自分が我慢すればいいんだという自虐的な気持ちで、
愛情を抑え込んでいた自分に気づいて、どうしようもなく虚しくなるのである。
彼の目を見て、私の気持ちを話し、彼の気持ちを聞くことが、
心の素を垣間見る唯一の方法なのだと彼が教えてくれた。
長い年月、いくらそばにいても、話し合えないことには気持ちを通わせることは難しい。
「人の気持ちなど到底理解できない。」と話していた心理学の教授。
何度も思い出して、その通りだと深く頷いているのに、また忘れてしまうのである。
しかし、忘れた頃に彼がきっかけを与えてくれるのだ。
理解はできなくても、理解しようとすること。
察してもらえなくても、察してあげようとすること。
完全には達成できないことでも、しようとすることが互いの心を近づける行為なんだろう。
彼と共に生き、彼への愛を研鑽すること12年。
未だ彼の魅力は底が知れず、日毎に愛が増す。
死ぬ頃には彼の魅力に当てられて目が見えなくなっているかも知れないし、
耳が聞こえなくなっているかも知れないし、
なんなら声を出すことすらできなくなっているかも知れない。
それでも、そんな彼に愛されている私は世界一幸せなことに変わりはない。