人間の認知の仕組みとボディーワーク

自サイトのアクセス統計を見て、少し考えました。

どうして私がこれほど身体訓練にハマっているのか、大多数の人には、よく分からないのではないか。
特に私は極度の身体オタクと哲学オタクがセットになった、濃厚汁だくキャラです(いやな比喩ですが)。
このnoteでも、相当ディープでドープでハードコアな、ボディーワーク業界や仏教瞑想の記事を書いています。

だからまずは、そこから説き起こす必要がありそうです。

一般的な人間は基本的に、外界に向けて情報解析をしています。
哲学の専門用語でいうと、この指向性の矢印を「ノエシス」といいます。情報を解析するための電波みたいなものを、外部環境に向けて発信している。そう考えてください。
またノエシスはその仕組み上、絶対に時制が現在進行形になります。

次に、跳ね返ったノエシスを受け取って解析したものが「ノエマ」です。感覚器官に上った情報がそれです。
これはその仕組み上、絶対に時制が過去完了形になります。

人間の行動は、このノエシス―ノエマが相互作用をしながら形成されていきます。

もっと分かりやすい例だと、「エコーロケーション」がそうでしょう。イルカやコウモリが、超音波を当てて獲物を見つける、外界認知のための仕組みのことです。
あれに近いことを、実は人間もやっています。
ただしここでは便宜上、そのノエシス―ノエマを統合したものを東洋哲学の伝統から「気」と呼びます。

ここまでが前座です。
では、この「気」を身体の内部に向けると、どうなるのか?
こういった人体実験を、おおよそ三千年前からし始めた人々がいます。
彼らは今でいうヨガ行者ですね。
あのブッダすらも、実はヨガ行者の一人でした。

気を内側に向けるための、もっとも身近な修行。
それが坐禅というわけです。

坐禅を経験したことのない人は、あのずっと座って時折警策(きょうさく)でバシンと叩かれるパワハラを、一種の精神修行と勘違いしています。
ですが修行の本当の目的は、「身体感覚をよくすること」です。

というのも、実は微細な身体感覚と、自分の中の捉えきれない心のヒダは、リンクしているためです。
例えば無意識に特定の人を嫌っている感情や怒りの心は、肝臓の痛覚反射から生まれたりします。
特定の臓器に特定の感情が宿る。
その事実を、いにしえの修行者たちは、経験的な知識として蓄積してきました。

仏教の深層心理学が、なぜ古来より発達してきたのか。
そこには専門の深層意識開発法が、伝統として継承されてきたのですね。

さて、この気を内側に向ける修行をやりまくると、自分の心の汚い部分が、明確に認知できるようになってきます。自分自身で過去の自分をカウンセリングするようなものです。
すると、心がきれいになっていきます。
いわゆる「心の闇」は、自分の力でその存在を理解したり認知してあげた瞬間に、まさしく成仏できる。
カタルシスを得るわけです。

そしてここが面白いのですが――実はその心理的カタルシスは、東洋医学でいう「好転反応」と等しい効果を持っているのです。

坐禅を始めてから、私は相当頭痛や発熱を経ました。
数でいうと、二十はくだりません。三日間熱が止まらないこともありました。
そして熱や頭痛が出る度に、なんだか過去の嫌な記憶がよみがえってきたのです。前の職場の嫌な人のことだとか、失恋の経験だとかです。

「そういった古い記憶を整序化して、デフラグする作用が、どうも身体修行にはあるようだ」
これに気づいた私は、ボディーワークにハマりました。
やりまくればやりまくるほど、身体も心も軽くなって、幸せになっていくからです。

なんとなく、理解できますでしょうか。
私が活元運動や坐禅をやりまくるのは、結局そういった身体修行が、身も心もきれいにしてくれるからなのです。
心理的なそうじと、身体的な老廃物の代謝は、明らかにリンクしている。
整体をやり続けると、人間的にさっぱりしてくるのも、結局は両者が、同じ場所を目指しているからになりません。

特に現代人は、日常生活の情報過多や過刺激によって、身体の負債疲労を見逃しています。これも坐禅によってある程度意識化ができます。
意識化ができ、身体の整合性が高まると、低下していた身体の体力が戻ってくるわけです。重病ともおさらばができる。だからメンテナンスの重要性を、私は日々説きまくっているのですね。

上述のことは、全て私が自ら体験した出来事です。
説得力において、他の追随を許さない。
そう自負しています。

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