物語り 愛と涙と星のきらめき 9
湿った土の匂いと青い草いきれを孕んだ風は、草はらの上をそよぎ、緑地の周囲を囲む雑木林の奥へと吹き渡っていく。
凌霄花(のうぜんかずら)は風に揺れる緑葉を覆うように、耀耀(ようよう)と輝く大輪の花を咲かせていた。
朝の光にその緋色をますます紅く染め、私は此処よと言わんばかりの光輝を放っている。
「ほら見て、あそこ」
私は、白いポーチの傍らで鮮やかな色彩を放つ凌霄花を指さした。
「本当、すごい存在感!目がさめるような色ね。でも…あのバンガローみたいな家、以前はなかったわ。いつ建ったのかなぁ」
首を傾げる梨花に——どうして知ってるの?と言いかけて卒然と気がついた。
梨花はこちらの雰囲気を悟って、意味ありげに笑いながら言う。
「私がこの町の古い住人ってこと、忘れてない?もっとも3年間は不在だったけど…」
そう——私はまだ日の浅い移住者だったんだ。それにしても3年間の不在って何だろう。
謎にかえる私をよそに、梨花は首を伸ばして遠くを見渡している。
「それより、カバの背中——カバの背中は何処だったかしら?」
「カバの背中?何それ」
聞き返すも、梨花の視線は昔日の忘れ物を探すように草地をまさぐっていた。
「あった!あそこあそこ」
指さす先にこんもりした小さな築山があった。本当にカバの背中ほどの。
そこからさらに西の方へと拡がる柔らかな草地の縁(へり)を細い小川が遮って流れている。
登校の朝通り過ぎるだけの散策だから、目にするはずもなかった緑地の豊かな自然。
二人してカバの背中に腰掛け、風に吹かれるまま広やかな緑地の景色をひとしきり眺めた。
「ねえ…今、急に話したくなった物語があるの。聴いてくれる?」
「いいわよ、どんな話?」
興味津々で聞き返すと、梨花は風に乱れた赤褐色の髪を耳の後ろに撫で付けながら、ためらいがちな風情で「三年間不在の物語りよ」と宣言すると私の謎を解きにかかった。
その「三年間」は父親に代わって母が家計を支えるべく、ナースの資格を取るためにはどうしても必要な期間だったこと、その間姉妹は伯父の家に預けられ、転校を始めとする様々な環境の変化に苦しんだ事が語られた。
朝の眩しい風光に満ちた景色の中で、梨花の告白は淡々と紡がれる。
来し方の辛かった過去を搾り出す思いで語っている梨花自身、この自然の中で癒されながら再生を繰り返しているような気さえしていた。
一方私は物語がフェードアウトしてゆく展開の中、遠くに見える緋色の花を見続けていたのだが、不思議なことに明るさを取り戻しながら聞くことが出来たのだった。
しかし妹、可奈の病が持って生まれたものと解釈していた私を愕然とさせたのは、病が発現した原因…そもそも梨花が男嫌いになった原因だった。
それは自分自身も含め未成熟な少女にとって絶対侵されてはならない聖域——性の問題だった。
梨花は可奈の尊厳を守るために、曇りガラスを通して言葉を選んでいたが、私は聞くべきではなかったという思いが否めなかった。
しかし、話終えた梨花は遠くを見つめたまま、むしろ穏やかな調子でたずねる。
「驚いたでしょう?」
言葉に詰まった。が、私はこう言おうとした。
「貴女の男嫌いの理由、やっと解ったわ」
胸が押しつぶされる思いで伝えると、梨花はふふっと笑って足下のシロツメクサを摘み始めた。
「こんなふうに踏みしだかれてペシャンコになっても、夜露が降りて朝の光を浴びたらまた復活するのよね。すごい生命力だと思わない?」
☆
「大変!もう行かなくちゃ。寄り道しすぎたみたい」
すっかり寛いでしまった梨花を促して緑地から一本道に戻った。
「始業に間に合う?」
「ちょっと怪しい。でも、走れば間に合うかな」
会話が終わらないうち示し合わせたように、二人して一本道を駆け出していた。
息を切らせながら通学路にたどり着いた時、正門の傍らで後ろ手を組んで佇んでいる指導教諭の姿が目に入った。
「朝っぱらからまともに会いたくない人だよね」と、梨花。
「じゃあ、自転車通路から行こうか?」
「でも坂道だし、回り道だし…」
あれこれ算段しても石段の上から俯瞰されているのだから逃げも隠れもできない。
案の定、声がかかった。
「おい、お前たち早くしろ。もう少しでチャイムが鳴るぞ」
滑り込みの理由を言ったらまた共謀罪で罰せられるかも…だから…すみません!で、走って通り過ぎなくては—しかし教諭の態度にそんな雰囲気はうかがえない。あの厳しい顔の表情が見るからに緩んでいる。
——高校時代の俺だっていつもこんな調子だったじゃあないか。
青春の思い出をたぐり、かつての自分と重ね合わせているかのようだった。
後から来た数人の男性徒が笑いさざめきながら、勢いよく階段を駆け上って行く。
二人はチャンスとばかり、お互い目で合図を送ると同時に彼らの後を追った。
ーつづくー