![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157964791/rectangle_large_type_2_8195eaf26b5238733e60cb8448dc1647.png?width=1200)
物語り 愛と涙と星のきらめき 10
草地を渡るそよめく風、木々のざわめき——
六月に入って緑はさらに鮮やかに際立ち、煌めいている。
凌霄花(のうせんかずら)は花の時期を終えていた。
梨花が教えてくれた小さな築山——「カバの背中」の心地よさに惹かれて通り過ぎるだけの散策から、緑地で過ごす休日の朝に切り変わった。
どうやらこの広やかな自然が癒やしの場所として、欠くことのできない空間になってしまったらしい。
薄手のパーカーをはおり、ナップサックにペットボトルの紅茶とランチパック、携帯ラジオ、暗譜の練習用に楽譜を挟んだバインダーをつめこみ、近間なのに騒々しい出立ちで家を出た。
こうした心理面の必然は、私の心の闇となって潜在し続ける梨花と加奈の身の上にあった。
共感とか、寄り添うとか、使い古された行為などおそらく何の役にも立たないだろうう。そんな軽々しい問題では無いのだ。
かと言って私のちっぽけなこの頭では、気の利いた言葉掛けはおろか手助けとなる方法など生み出すはずも無い。
それにしてもこの草地のなんと言う心地よさ——
深まりゆく緑と、吹き渡る風のそよぎに目と耳を奪われる。
大学に入るまでこの空間を何としても手放したく無い。
一度でもいいから、父には単身赴任をしてもらって私の苦労を味わって欲しいのだ。
可哀想なのは相方のピアノも同じ。何度も何度も脚を外され、分厚い布に包まれ、時にはクレーンで吊り上げられ、一人寂しく倉庫に一時保管され……
こうした犠牲を払ってまでピアノを続ける理由を考えた時、何だか全てが道化じみて思えてくる。
一度たりとも演奏家になりたいなんて希望したことは無いのだから…
今日は「カバの背中」に陣取って、頭の中にもやもやと立ちこめる色々なことを、あれこれ考えるだけの日になりそうだ。
* * *
梅雨の走りだろうか——雨もよいの日が続いたある日の下校直前、強い雨足がおそった。
傘を持っているのにも関わらず多くの生徒が昇降口で足止めされている。
吹き込む雨を避けて、梨花と一緒に傘を差したままポーチの下に佇んでいた。
凄まじい雨の勢いがようやく衰えた頃、背後から1人の男生徒がかけ寄り私の傘の中にその長身を潜らせて来た。
振り返る間もなく、電車の中で見た門脇裕の長く濃いまつ毛が目の前にあった。
「小降りになったらでいいけど駐輪場まで入れてってくれる?」
まるで何回か逢瀬を重ねたかの様に馴れ馴れしい。
渡り廊下の一件以来、私と裕の間にちょっとした関わりがあった事を知らない梨花は「ん?」と言う表情を向けた。
だからわざと突き放すように邪険に言った。
「いいけどぉ。でも——でも私の傘、折りたたみだから小さいし、柄も短いし……梨花の方が長傘で大きいし、二人とも背が高くて釣り合っているし……」
もっともらしい私のうっちゃりに負けて、裕は梨花の赤い傘の中に移動した。その勢いで揺らいだ持ち手の上部を支えた彼の手が、梨花の白い手に重なった。
沈黙のまま梨花と裕の視線がからみ、時が静止したように思えた。
この光景…私にとっては思い出したくも無い不覚の出来事だったけれど、入学当時の渡り廊下の一件がよみがえった。
私を庇って怒り狂う梨花に、2人の友人を伴った長身の上級生が近づくと、意味深な謝罪の言葉でこう言ったのだ。
「言い訳になるかもしれないけど、女の子に興味のない男なんていないよ。可愛い新入生を見つけたら尚さらさ。誰だってそうさ、そうだろ?」
あの時と同じ切れ長の目が梨花をじっと見つめている。
梨花の白い頬がほんのりと紅く映えたのは、赤い傘の色移りのせい?それとも強固な防衛線は突破された?
裕は梨花に向き合ったまま目を逸らさず、掴んだ傘の持ち手を押し返すようにして離れた。
「そう言えば、俺……」
中途半端な言葉を残してカバンを頭にかざすと、小やみになった雨の中を駐輪場のほうへと勢いよく駆け出していった。
梨花の視線が裕の後ろ姿をいつまでも追いかけている。
その横顔を見続けながら私は思った——防衛線は確実に突破された。
その後の梨花は、相変わらず男子生徒への痛快な反撃を改めることはなかったが、言葉の勢いの中に、心底本気でないようなニュアンスが漂う様になった。
ーつづくー
☆いつもお読みいただき有難うございます。
見出し画像は「みんなのフォトギャラリー miciluceさん」の作品より拝借しました。