フラクタルの悩み
近年、家族の在り方が変化 (良い方向に) したのか「産んでくれて有難う」という親への感謝を伝える言葉を良く耳にする様になった。
「生まれて来てくれて有難う」
皇后雅子さまが、愛子さま誕生の時に表現したその言葉に、まるで呼応する様に巷で自然発生した美しい言葉を、衒いなく、素直に伝えられる今の若者のを、親子関係を、古い世代の私は羨ましく思う。
一方、両親の不和が原因で心に傷を負った子もまだまだ居るはずで、この子達には手の届かない高みの言葉であることは確かだと思う。
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「何で私を産んだんの?」
思春期から青年期にかけて、その生きづらさから両親に抗議し続けた姪っ子の言葉である。
何故生きづらかったのか、先ず、三十年余り前の、姪っ子が未だ五歳だった時のエピソードをひとつ話してようと思う。
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彼女は両親と祖母と連れ立って、念願のディズニーランドにへ遊びにきた。
同い年の息子を連れて私も合流する事になった。
年少の子供が楽しめるアトラクションを 2、3 楽しんだ後、息子がスペースマウンテンに乗りたいと言い出した。それではとなったが身長制限があって小柄な彼女は叶わなかった。
息子と彼女の両親が入場し、彼女は祖母と私と共に後方に置かれたながーいベンチで待機することになる。
と…、突然小さな足でそのベンチを蹴り始めた。
勿論、他の人も座っていたから慌てて注意したのだが、五歳の女の子とは思えない悪態ぶりで反撃して来たのだ。
「うるさい!豚女、クソ女!」
唖然として言葉を失ったまま、しばらく彼女を見下ろしていたが、
「あっちへ行け豚女!クソ女!」と追い討ちをかけた。
「おばちゃん、豚女でもクソ女でもないよ」とたしなめても攻撃の言葉は止まない。
ふと気がつくと、祖母がベンチの隅っこで「他人です」というかのように俯いて座っていた。
ベンチに座っていた人は驚いて立ち去り、私たちの周りは人だかりが出来ていた。
アトラクションの中にいる両親はこの一部始終を知る由もない。 事が治まって、彼女の祖母が語ったのは……
嗜めるために言えば言うほど激しく抗弁するという事、父親が母親を罵倒する、両親の喧嘩を常に見てきたからだという事だった。
遠くに住んでいる為、日々の事はわからないが夫婦に問題がある事は知っていた。
彼女の父親は理知的で弁のたつ人である一方、激しい人格を持ち合わせている。
言葉の暴力に止まらず、時として肉体的暴力を振るう事があった。
姪っ子の激しさが、父親の遺伝的負荷によるものかどうか素人の私には解らないが、少なくとも家庭環境に大きな原因があることは確かと言える。
こうした性向のある子が幼稚園、小学校と就学して友達との間に摩擦が生じないわけはない。ただ正義感だけはだれより優っていたから救いであった。
彼女が小学三年の時、父親が海外へ転勤になって一家は異文化の中で暮らす事になった。
お互い寄り添わなければならない暮らしの中で、両親の諍いは激減した。
この比較的穏やかな二年間が彼女の模索の時となり、他者との正しい関わりを育んでいったのだと思う。帰国後の彼女は大きく変わっていた。
さらにその後の生育の中で、少しづつ自らを正しい方向へ修正していったように思う。
父親譲りの性格による社会との軋轢を感じながら、アトピーや喘息など体質からくる悩みも被って、彼女の思春期はまだまだ混乱の中にあった。
「なんで私を産んだの」という発信はその時期の生きづらを投げかけた言葉だった。
これまで紆余曲折の人生であったが、今は見違えるほど落ち着いて、一児の母となり仕事を持ち奮闘している。
子供をもうけた時、どんな思いで我が子を迎えたのか、残念ながら直接聴くことはなかったが、彼女が葛藤し続けた言葉は内省の日々を経て
「生まれて来てくれて有難う」
「産んでくれて有難う」
という二つの言葉に統合され、漸く心との和解に至った筈である。
今、父親も好好爺に変身し孫にぞっこんの生活になった。
母親もまた、口うるさいのは相変わらずなんだけどと、穏やかに笑うようになった。
こうやって筆を書き進める私だって、人のことをあれこれと批判できない数多の事情を抱えて来た。
寧ろ「こんな家庭でごめんね」と子供たちに謝らなければならない。そしてよくブレずに成長したなと褒めてあげたい。
私から「生まれて来てくれて有難う」という言葉、送ってみようかと思ったりするけれど、やっぱりこそばゆい。
子供たちにも「何それ、やめて」と言われそうな気がして、当分決行出来ないな…。