桜が、降りますように。
少し重くじっとりしたお話かもしれません。
ご承知の上ご覧ください。
(命の話があります)
わたしの祖父母は長野に住んでいます。
長野はとても良いところで、聞こえる音はたまに通る車と鳥や動物の声。それと囁くような風の音くらい。
子供の頃の楽しみは、大きな自然の中で外遊びをすることでした。
夏はスイカ割りをしたり、山や野原を駆け回り、お昼寝をして、庭に出したプールで遊ぶ。
冬は、雪だるまを作ったり、祖父が雪かきをした雪で作ったかまくらで遊ぶ。
雪の上に寝そべり落ちてくる雪を眺めたり。
思春期になると、なんだか昼寝をしてばかりだった気がします。
今、大人になって。
長野で過ごしてみると時間が足りない、体感時間がとても短くあっという間で、足りない、まだいたい帰りたくない…と思う程でした。
遠くには綺麗なアルプスが見える、近くに建物などはなく、心が落ち着く。
窓からはカーテンを揺らす風が心地よく入り、それがとても優しくて、自宅では味わえない爽やかで、いや味のない風でした。
空もなんだか高く思えるし、時間を噛み締めるように過ごせる場所でした。
わたしの求める理想の非日常はこれでした。
3月の春の訪れを待つ時期、大好きな祖父が亡くなりました、闘病の末や事故ではなく、温泉に入り気持ちよくなったあとの心臓発作。
人の命は有限なので、その終わりが辛いものではなくよかった…と思いました。
手術をしたばかりだったので、これから弱っていく一方なのだろうか?と心配でした。
でも“死にたい”と“死なせてくれ”と命を投げ出したくなるほどの辛さの先にあった死ではなくて良かったです。
祖父の事がわたしは誰よりも大好きでした、真面目で、すごく頑固。
宮沢賢治のアメニモマケズのような人でした。
「あの時代は、頑固でなきゃ生き延びてこれなかったんだよ」と、聞きました。
大変な時代を、真っ直ぐに生きてきた祖父をとても尊敬していました。
私に沢山のことを教えてくれました。
人生の辛い時期は山を登るように一歩一歩踏みしめて登る、頂上は見ないまずは足元を。
そんな考え方で生きています。
それを教えてくれたのも祖父でした。
ずっとずっと実感がないまま。
3月に雪が降った長野で、時間を噛み締めるように過ごしていました。
死への恐れの大きな要因は“忘れられること”だと最近は思います、誰も自分を覚えていてくれる人がいないまま死んでいく。
これが1番怖い事だと思います。
だから、わたしは写真を沢山撮りました。
今の、この気持ちを忘れたくないから。
寂れた駅前のカメラ屋さんでフィルムを2本買いました。
噛み締めるようにフィルムで1枚1枚撮りました。
その現像記録でもあります。
最近はずっと同じカメラ屋さんに現像をお願いしています。写真の現像を通して、わたしの人生を見てくれていると思うと、沢山撮りたくなります。
“亡くなった人を思い出したとき、天国ではその故人の上に花が降る”と曖昧ですが誰かに聞きました。祖父の上に沢山の桜が降りますように。
長野にいる間ずっと、イケダサトルさんのポートフォリオを見ていました。
ちょうどその時、手焼きプリントの販売をしていたので購入しました。
それでは、また。
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