雪、夕方、微睡と祖母
2024年 3月某日
静かな自室で、薄闇が徐々に東から流れてくるさまをぼんやりと眺めながら、時間があることを謳歌するように横になっている。休日である今日、必要な用事は通院することだけで、ただし外は寒いので出かける気にもならない。3月だというのに昨晩、降り頻る雨が雪に変わり、朝カーテンを開けると曇天でも眩しく感じたのは、目の前に広がる畑が真っ白に覆われていたからだ。今日は近所の中学校の卒業式だったらしい。思い返せば高校の卒業式の日も、冷たい雨の日だった。かつての入社式の日も、スーツスカートから伸びた脚が震えるほどの寒い雨の日だった。
病院の帰りに花を買った。ラブラドールという種類のチューリップで、深い燕脂色のような、すこし紫色に寄ったような色で、花びらの縁がひらひらとほぐれたレースのようになっている。一緒に買った花の名前は忘れてしまったけれど、白地に紫色がマーブルに入った、エレガントな花びらだ。大きな花瓶にまとめて挿して、部屋の中心の低い丸テーブルにどかりと置く。普段、ほぼ寝るためだけに自室に帰っているが、帰宅し電気をつけて花が生き生きとしているさまを見ると、自然と顔が綻ぶのだった。
本を読んでいて気づけば微睡の中にいる。青葉犀子さんの『よかにふる』という、夢の中のような、日記のような(日記も含まれている)、起きがけに思い出して目覚めると忘れてしまう子供のころの記憶のような、そんな活字の浮遊が眠りの中でもつづいていたように感じる。母に声をかけられて起きると窓の外はすっかり闇で、テーブルとベッドサイドにそれぞれ置いているデスクランプの橙色がほかほかと室内を照らしている。毛布に半身を入れていたのに足先は冷え、お腹も空いている。面倒くさがりで運動嫌いの私は家にいるのが好きだが、自室で迎える夕方は内省を誘い、なんだか寂しくなってくる。大概この時間に少し眠るので、夢の中でいま最も愛おしく思う人の夢を見て、目覚めたとき虚しさを感じるのかもしれない。
父方の祖母がどうやら施設に入ったらしい。
半年ほど前、父の自由や我儘を我慢し傷ついてきた母がついに限界を迎えた。仕事の都合で遠方に住んでいる父とラインのやり取りで言い合いになり(言い合いというより母の説明と父の言い訳の応報だった)姉と私もそれに巻き込まれていった。父に対する数々のトラウマや確執をずっと抱えてきた私たち娘も、これまで心に溜め込んできたこの家族の形に対する違和感を打ち明ける機会となったのは自然な流れだった。結局、父はこれまでの家族に対する過ちを認めて謝罪したものの、私たち家族には直すことのできない亀裂が入ってしまった。
父と疎遠になったことによって、東京都内でひとりで暮らす祖母ともすっかり会わなくなっていた。祖母がいまどんな暮らしぶりなのかということも、全く知らないままに日々は過ぎた。祖母は昔から目が悪く、ひとりで街を出歩くのは数年前から難しくなっていた。最近では曜日感覚もあやふやになっているらしい。
子どものころ、正月なんかに父方の親戚で集まったりすると、私はいつもそわそわと落ち着かなくて、自分の全てが間違っているような気がしていた。祖父も、2人の叔母も、姉と同い年の従姉妹でさえ少し怖くて、取り繕ったにこやかさというものを常に纏い、本当に思っていることはなるべく言わないように心がけていた。皆私に優しくしてくれていたけれど、祖父や父や叔母たちは我が強く、包み隠さない物言いをするからかもしれない。祖父母の家に集まるときは、激しい口調で文句を言い合うのを、襖を隔てた居間でテレビを見ながら聞いていた。
そんな親戚の集まりで穏やかな気持ちでいられるのは、祖母と話しているときだった。祖母といるときだけは、心をぎゅっと縛り付けている糸をすこし解いてもいいような気がした。おしゃべりな祖母は余計なことを言って父や叔母たちに疎まれることもあったけれど、私は祖母の話を聞くのが好きだった。祖母は料理も好きで、母や私はよく祖母の料理を手伝いながらレシピを聞いた。毎年正月に作るお手製のローストビーフは、祖母から教わったレシピである。
祖父のお通夜のとき、目の悪い祖母のためにマニキュアを塗ってあげた。いつものように、みーとんは上手に塗るわね、よく見えないから嬉しいわ、と東京のお嬢様の口ぶりでたくさん褒めてくれ、乾くのを待つあいだに気づけばうとうと微睡んでいた。両掌をテーブルにそっと置いたまま、背中を小さく丸めて。なんだか抱きしめたくなって、でも結局そうはしなかった。祖母のことを思うとき、よくその背中を思い出す。