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日記 2023/9/24 救いと言葉



いくつかの救いがある。

あなたと車で水族館の帰り道、素直に戻るのが惜しくてするまわり道。あなたとの真剣な会話、真剣な態度。そしてすこしふざける、かなりふざける、乾いたようなパラパラとした笑い声、葛藤や苦悩を誤魔化そうとするときの、鼻と口の繋がったところで砕けるような笑い声。コンビニのコーヒー、見慣れたコンビニが、煌々と見えて永遠とは両極端にあるものとして私の中に入ってくる。柴田聡子の「涙」、ミツメの「メビウス」、アネコアヤノの「明け方」。好きな本に出てくるやさしさについての言葉。架空の友達。言葉にしがたいあなたとの関係性。かわいいキーホルダー。会いたい人に会いに行くときの私、身じたく。冬の日差しが近づいてくれているとおもう。

柴沼千晴『犬まみれは春の季語』をもうすぐ読み終えるところで、恋愛(?)について書かれていた。いわゆる恋愛の話が苦手だという。〈あなたが嬉しいと思っているならおめでとうだし、そうではないのならそうなんだね、というだけ〉。そう、本当にそうなのだよと思う。私が雑に分析していた自分の恋愛の話に関する気持ちを、あまりにやさしくそしてその通りだという言葉で綴られていて、安心する。柴沼さんは続ける、〈あなたとしてのあなたがあなたであること、たったそれだけをもっときれいに、最大限のいとしさを添えて伝えるにはどうすればいいのだろう〉。

昨日、言葉の無限性と残酷性の話をしたことを思い出す。誰が使うか、どう使うか、何と組み合わせるか、どう繋ぐかなど、言葉は使い方によって意味を超越した表現ができるということを、私はこの歳になってやっと理解した。そして同時に、感情や経験を言葉にするということの、残酷性についても考えた。言葉はある種の規則で、思ったことや感じたことや、身に起こったことは、一番意味として近いであろう言葉で表現されるのであって、言葉にする前の事象・心情とイコールにはならない。その過程で削ぎ落とされる部分が必ずある。そして言葉が他者と共有可能なものであるなら、共有することの難しい感情や経験は、言葉にしてしまうと公的なものとして奪われるという場合もあるはずだ(表象し難い高揚や、恐怖や、苦悩などがそうだと思う)。

誰かに「あなたを大切に思っている」ということを伝えたくて言葉にしたとして、それは気持ちの全てではなく最適解だ。そしてそれを、たとえば「恋愛」とか「友情」と表現してしまえば、気持ちの種類や相手との関係性が途端に規則的なものとなる。わたしはそれが怖い。あまりにも愛おしくて仕方がない人がいて、でもわたしはその相手と向かう先が欲しいわけでもなく、この関係に答えが欲しいわけでもない。それをそのまま認めるための言葉は、一体どんなものだろう。柴沼さんの葛藤はこのことなのだろうかと、ひとり電車で考えるうち駅に着く。

落とし物を拾ってもらったとき、また「すみません」と言ってしまった。ありがとうと言いたかった。素直に使いたい言葉が使える人間には、いつなれるんだろう。

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