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YUKIちゃんの「ハローグッバイ」を愛すること。

YUKIちゃんの「ハローグッバイ」を愛してる。

ハローグッバイは
2005年にリリースされたシングルで、
当時エッセンシャルのシャンプーのCMだった。

この楽曲はシンプルにめちゃくちゃかわいい。

CMになるくらいだから、
とてもキャッチーで優しくて
いかにも商品や企業イメージを
あげてくれそうなメロディーライン、
そしてCMでも流れていた、

「私が見てきたすべてのこと
 むだじゃないよって君に言ってほしい」

とっても素敵なワンフレーズだ。

歌詞、メロディーともに優等生なこの曲に、
私は当時小学生ながらに惚れ込んでいた。
なんかエッセンシャルを買ったような気もする。

そして、
私が見てきたすべてのことを「むだじゃないよ」
と言ってくれる、
白馬の王子様がいつか現れるんだ.......
いつ出会えるんだろうか......そんなことを
本気で思ってた気もする。

誰かを好きになって、
その誰かに私が見てきた
嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、辛いこと。
すべてがムダじゃなかったと
肯定してくれる誰かに出会いたい。
いつかその人に肯定して欲しい。

この楽曲が発売されて17年。
私はその誰かと出会えたのだろうか。

「誰か」って誰なん問題

そこから中学生で初めての彼氏ができたり、
別れたり、また付き合ったり。
恋愛だけじゃない。

恩師と言えるような人ができたり、
新しい環境でできる友達もたくさんできて、
気づいたら勇敢なバニラアイスクリームの19歳、
20歳になってお酒を飲めるようになって、
社会に出て............
その時々で私の全てを肯定してほしい人と
出会った気もするし、
今思うとその人たちには別にそんなことを
望んでなかった気もする。

えーっと。その。つまり。
その、私に「むだじゃないよ」って
言ってくれる誰かって誰なん?

そうだそうだ、
一旦歌詞を見てもらってもいいですか?

夕方 金色の星
スタンバってどっちを選んでみよう
出逢いなんてわくわくもの
期待ばっか先回り 空回り 見えないわ

転がり続けて傷だらけの素足は
しあわせなのかしら
私が見てきたすべてのこと
むだじゃないよって君に言って欲しい
人は誰かとかかわるハローグッバイ
ちから漲るよ わなわなと
巡り逢うよベイビイ

ここまでで一番。

サビに入る前、これはまたYUKIちゃん節だ。
私はYUKIちゃんの独自の世界観を彩る、
何通りにも解釈できるような
詩的な言葉が本当に大好きだ。

夕方と金色の星はYUKIちゃんにとって
何なんだろう、これはわからない。
でも、
期待してみたり、
期待を裏切られたりして
そんなことにも慣れ始めた傷がついた素足に
「幸せなのかな?」と投げかける、
その感覚はなんとなくわかる気がする。

そしてサビの一番印象的なフレーズ
「私が見てきたすべてのこと
 むだじゃないよってきみに言ってほしい」
全て正解、幸せではなかった今までの私を
「むだじゃないよ」って言ってほしい。

そして「人は誰かとかかわるハローグッバイ」
この曲はいま今ここにいる「私と誰か」
じゃなくて、
もっともっと時間軸に自由な
過去も今も未来も含んだ出会いと別れを
繰り返す物語なんだな?と気づく。

女子会の招待状が届く「2番」

そして歌詞はこう続く。

短い夏が終われば
秋が来て寒い冬がくるように
私はどんどん変わっていく
はにかんだり
舌をだしてみたり
さびないわ
目の前の大きな岩壊すセンスは
磨かれてるのかしら

まるで季節が移ろうように、
自分も変わっていく。
いい時も悪い時もあるけど、
悪い時も含めて「変わる」ってさびない。

いいな〜いいな〜
「さびない」っていいよな。
私は個人的に「錆びる」に対しては、
「置いて行かれた、取り残された」
という言葉を連想する。

変わっていくことで、
もしかしたら
今以上にはなれないかもしれないけど
それでも変わってさえいれば
私は「さびない」。
最高の自分への言い聞かせだと思う。

そして「目の前の大きな岩」という、
恐らく大きな試練を乗り越える「力」じゃなくて、ここは「センス」。
ただただ力で立ち向かうんじゃなくて、
その立ち向かい方や壊し方を考えているかな?
どちらかというと、
自身に対する「パワー」じゃなくて、
経験や知識による「洞察」の
能力を問うているみたい。

あなたがくれたすてきなこと
胸にしまっている光と影
いつかは誰かと言う
セイ・ハローグッバイ
みのらなくても大切なこと
地球は回る 私をのせて

「胸にしまってる光と影」
だんだん大人になると、
すてきなことって
いつも輝いているわけじゃなくて、
時にくすんでて暗いものの時もあることを
気づくときなんか、あるよネ〜

YUKIちゃんが時たまにくださる、
「そうそう、そんなことに気付けちゃうようになっちゃったのよ〜私たち」みたいなやりとり。
キャピキャピ期は
とっくに終わった女子が集まる
女子会の招待状って感じでたまらない。

ここまででも十分YUKIちゃんの楽曲がくれる
過去現在未来の自分と向き合う時間は
濃密なのだけれど。

「さよなら明日また会えるよう」

転がり続けた石ころは
あなたを必要としているわ
心に唄う"一本道"を
ゆらりゆらりと歩いていこう
さよなら明日 また会えるよう
指切りをして Yeah!

改めて歌詞を読み砕くわたくし、
「石ころ」が登場人物なの、
なんか違和感だな......なんて思う。

そう、ここに来てこの曲の違和感がすごい。
「石ころ」ってなに?

ここまでの登場人物は
「私」
「君」
「あなた」
「人」
そして「必要としている」という意志があるなら、「石ころ」も含まれる。

突然の「石ころ」。

そしてそのあとの
最後のサビに向かうフレーズで、
誰かに問いかけている。

「さよなら明日 また会えるよう」

誰に明日また会えるんだろう?
この曲の「私」目線でいうと
「あなた」なのだけど、
この「あなた」って明日絶対会える人なの?

.........そして私はここで思った。
待てよ.......これ、「あなた」も「私」....???

もし、私が「私」なら、
明日確実に100%また会える人って
「自分自身」しかいない。

「さよなら明日 また会えるよう」
このフレーズで、
私はこの曲の登場人物を

「私」→ 今現在の私
「君」 →未来の私
「あなた」→過去の私
「人」 →私を含む世間の人たち
「石ころ」→「私」の比喩

と定義づけた。

つまり、
冒頭で投げかけた「誰か」とは

「自分自身」だったというわけで。

「君」も「あなた」もあっての「私」なので

これは私の解釈だ。
恐らくYUKIちゃんの真意はわからないし、
他の方からしたら他の登場人物がいる。

でも私にとって「ハローグッバイ」は
今の「私」に、
いつだって過去の、未来の「私」が
ついていることを教えてくれる、
スーパー自給自足、私ありがとうソングだった。

だって私は、
いろんな人と、そして自分自身と
ハローして、グッバイしてきた。
そうやって変わり続ける中で
過去の「私」がしてきたことも、
今の「私」がしてることも、
未来の「私」がすることも、
全部むだじゃないよって言ってあげたい。
誰よりも「私」に。

私は「私」が「誰かという他人」によって
完成する生き物であり、ストーリーだと
幼い頃は思っていたかもしれない。

でも、「光と影があるすてきなこと」を
たくさんもらってくると、
「私」はちゃんと「私」だけで
なんとか完成する生き物であり、
ストーリーだと思える。

他人が不要、ということじゃない。
過去の私や、未来の私が、
今の私がここに自分の足で立てるようにしてくれている。
そして自分の足で立てる私がいるから、
私はきっと人を愛したり、ゆるしたり、
慈しんだりできるんじゃないのかな〜
なんて思うから。

だって間違いなく自分に言ってあげたい。
今も昔も私が見てきたすべてのことは無駄じゃないよって。

そんなふうに考えると、
過去も、今も、未来の私も
なんだか愛おしくなってくる。

先程も言ったように、
この解釈は私だけの解釈だ。
「私」「君」「あなた」、
特に「君とあなた」をYUKIちゃんが意図的に書き分けているなら、
別の説も全然あるだろうと思う。
そして日本語のニュアンスを鑑みると
ラスサビ前「また会えるよう」の「う」
が、
「また会えることを祈るように指切りしよう」にという意味での解釈もできるし、
そうなってくると
今一緒にいて、また明日も君やあなたといれるように〜という想いもありそう。

YUKIちゃんの歌詞の好きなところは、
解釈に限界はなくて
どんな形でも「私の曲」として、
誰かの心にフィットするところだ。

そしてこの「ハローグッバイ」は
私の心にこうやってフィットした。

皆さんの心には、
どんなふうにフィットしましたか?
今それを思い浮かべてから、
YUKIちゃんが最後の最後にまた歌ってくれる、
ラストのサビを聴いてみてください。

私が見てきたすべてのこと
むだじゃないよって君に言ってほしい
人は誰もが誰かとかかわるハローグッバイ
巡り合うよベイビイ

私にとって「ハローグッバイ」を愛することは
私を愛することであり、
私による私のためのラブソングでしたとさ。

私、また明日会おうね〜

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