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小言のこころ その4

小森隼くん、君の綴った1週間に感じた心の動きをここに記しておきます。相変わらず私は遅刻しながら追いかけていますが、気が付けば4週目となりました。いかがお過ごしですか。

私は変わらずここで今週も、思いを言葉にする為の練習をしているよ。

22日
「俺も天気も」という言葉が、なんだか天気という概念と肩を組んでいる様で好きだ。

隼くんの大切な日は、どんなに荒れた天気でも最後には大抵晴れるという不思議なジンクスがあると勝手に思っているけれど、あながち間違いじゃ無いのかもしれない。
肩を組むこの空は、触れた場所から伝わる君の心と共に泣いたり笑ったりするのかもしれないね。

「まだご飯が消化されてないな」という感覚に気付いたのは大人になってからなんだけど、君はいかがでしょうか。


23日
ステージで重ねてきたものを身体と心から放ったのち、静かにつく家路にてインプットに想いを馳せるその柔軟さを心から尊敬します。
凄い事だぜ、例え実践に移せずとも。花開いたのちに終わるのではなく養分を求めゆくの、いつまでも枯れない花みたいだ。(とはいえ別にインプットに走れずとも素敵なのです、だって休む事って大切だもん)

星の海を走る2日間のライブ、お疲れ様でした。


24日
7年前の今日、私は名前すらも知らぬ「小森隼くん」という人を生まれて初めて観て、転がる様に好きになったらしいのです。

毎年この日が来る度に「一目惚れというものは、案外お伽話じゃないんだな」と身を持って痛感したりしています。
(「格好良い人は亜嵐くんという人だよ」という予備知識のみ持って足を運んだマリンメッセ福岡、ライブ中にスクリーンに抜かれた人がとびきり格好良かったから「これが亜嵐くんやろ?!」と隣の妹に確認したところ、「隼くんですけど」と怒られたエピソードをきっといつまでも私は話し続けるだろうな。ちなみに亜嵐くんも勿論格好良いです。)

そんな今日は月曜日で、私のほんのり浮ついた気持ちとは相反して君は週初めに憂鬱を抱いていて、なんというか、そういうコントラストも好きだ。
分かる、等しいはずなのに指折り数える時間がうんと遠い旅路に感じるあの感覚ってなんなんだろう。

7年前の今日、隼くんの踊る・笑う・話す姿を初めて観ながら、まだ名前すらまともに覚えて居ないのに「この人はこんなにも格好良くて面白いのに、どうしてもっと前に出て来ないんだろう」と客席でずっと不思議に思ってた記憶を、多分私はいつまでも忘れないと思う。

あれから時間を重ねて、今君は毎週月曜日のお昼には国民的番組のレギュラーとして笑い、平日の22時にはラジオから10代の皆に向けて声を届け続けてる。他のお仕事のせわしさだってそうなんだけど、出逢ったあの日、よく笑って楽しくおしゃべりするのにどこか一歩下がった場所に居た20歳の隼くんに私は教えてあげたい。年を重ねた君は、自分の足で今居る場所よりも前にちゃんと進んでるんだよと。

苦労だって絶えずある。知る限りでも、知らないところでも別れは君の下にあったろう。大人になったって月曜日は憂鬱なままさ。
だけど勇ましく、俯いたり悩んだり自分を嫌ったり、時に泣いたりしながら隼くんは前に進んでる。

大丈夫だよ。
そんな事をきっと来年の今日も私は隼くんの轍を見守りながら考えるんだろうな。大丈夫だよ、この先もずっと君の事を見てるぞ。


25日
ラジオの中の学校で生徒ちゃんが名を挙げた時、声をぱあっと輝かせたあのワイヤレスイヤホンくんか...とこちらは頷いてしまう訳です。

「運命の出逢い」と呼びたいものって人生において幾つかあるけれど、隼くんにとってのその一端を担うのはこの子なのかもしらん。
そんな君は今、耳元でどんな歌を響かせているでしょうか。


26日
隼くんも愛する森見登美彦先生の著書、「夜は短し歩けよ乙女」の作中にこんな一節がある。

口に含むたびに花が咲き、それは何ら余計な味を残さずにお腹の方へ滑ってゆき、小さな温かみに変わります。
それがじつに可愛らしく、まるでお腹の中がお花畑になっていくようなのです。飲んでいるうちにお腹の底から幸せになってくるのです。

森見登美彦 著「夜は短し歩けよ乙女」より

作中の登場人物である黒髪の乙女が、幻のお酒こと「偽電気ブラン」を飲んだ時に抱いた心なのだけど、隼くんの綴る「嬉し恥ずかしい」の感覚に1番に思い出したのがまさしくこの一節だった。

人は居場所によって色んなキャラクターを着こなしながら生きている。きっと隼くんだってそうだ。君の友達も、玲於くんだってそう。

だけどその其々の居場所がきっと大切だからこそ、大切が交わる事が嬉しくて、でもあちらとこちら、いつも見せてる姿とはちょびっと違うそれを双方に見せるってなんだか恥ずかしくて。
だから君はお腹の中を擽られてる様な、もう1人の自分から楽しく茶化されてる様な感覚になるんだろうか。黒髪の乙女が口にした芳醇なお酒に、多幸感と春心地を覚えた様に。

なんだかそれって、人として物凄くいとおしく思えるよ。
(しかし「友達の友達に会ったのが洋服を脱いだ姿」というのもまたこう、恥ずかしさの一端を担ってる気もせんでもないぜ)



27日
寝坊してないので100点満点です。

「春は曙」とはよく言ったものですが、とはいえその時間には中々目醒める事は出来ないのが人の常。
春の最も美しいとされる時間を逃したならば最後、眠りの魔物に我々人間は抗う事など最早不可能なのです。やむなし。

なにより純粋に日々身体を使って頑張ってる、というのもあるよね。いつもお疲れ様です。ご自愛あれよ。


28日
幼稚園生の頃、一度だけ「お泊まり保育」なるものがあった。

みんなで園庭で遊んで、みんなでカレーを食べて花火を見て、夜はお遊戯室にずらっと布団を並べて眠る。
まだ片手でも余るほどの年齢の子供達が、普段昼間に過ごす場所で夜を生きるという非日常。まあ大人しく眠るなんて安易ではない中で、先生達は私達に魔法をかけた。

先生が抱えてきたちいちゃいきらきらした器の中には透明な液体が入っていて、「これはよく眠れる魔法のお薬なんだよ」と人差し指にちょびっとつける。
其々の布団の中で横たわる私達ひとりひとりの額に、先生の指先と共に触れた冷たいそれはなんだか心地良くて、気が付けば眠っていた事をよく覚えている。(翌朝目が醒めたら、隣で眠る友達の身体の半分が私の布団の中にあって「良い寝相だな」と子供ながらにしみじみ感じた事を含めて)

今思えば、というより当時も分かってはいた。
あの魔法のお薬はなんの変哲も無いただの水だったと。
だけどほんの少し額を濡らした周りの友達がひとりひとり、安心して徐々に眠りゆく様を見て、ちょびっと魔法を信じたくなった。あの眠りへの落ち方以上にやさしいものは、人生においてそう無い気がする。

もしかすると隼くんにとっての「マストアイテム」は、私にとってのあの日の魔法のお薬みたいな力を持ってるのかもしれないね。

そりゃ勿論元々の素敵なぬくもりの機能もそうなんだけど、「よく眠れる」と信じられるそれは自分自身に魔法をも掛けてくれる気がするのよ。
よく眠れます様に、1日頑張った瞳がひと休み出来ます様に。そういう、祈りにも良く似た優しい魔法。

ちなみに私はホットアイマスクと耳ほぐタイムのダブル使い派です。


また1週間、君の心に触れる事が出来て嬉しかった。有難うね。この先も望む限り、望むペースで。

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