シンポジウム「「日本の建築」を考える」に行ったよ!
2024/8/26に東京大学安田講堂にて開催されたシンポジウム「「日本の建築」を考える」に行ったよ!せっかくなのでレポしちゃいます!
17時開場/18時開演。隈研吾『日本の建築』を受けて、隈氏も含めた6人が約15分の持ち時間で講演をし、最後に討論という形式。20時までということもあり、ラストの東浩紀さんが話し終えた頃には残りされた20分でのディスカッションだった。以下、それぞれの講演内容のざっとしたまとめ。メモを元に再構成しているに過ぎないので、重大な漏れ/誤解あればコメントお願いします!
隈研吾氏による導入
・「道」的なまとめ方に反発があって書いた。
・同一なようでいて、伊勢の比率は実は結構変わっている(3:4→1:1)
・タウトによって「桂離宮が発見された」ということになっているけれど、タウトは桂そのものというより桂と庭の関係に興味を持った
・レーモンドの代理人としての吉村順三「松風荘」(1954-55,MoMA)→アメリカにも影響を?
松村秀一氏による「和室学」の紹介/導入
・和室ってなんだろう?
・『陰翳礼讃』vs「明朗性」by吉田五十八
・単なる立方体を超えた「平等性」及び「遊興性」の空間としての和室/グリッドという考え方は結構好き。どこに座ってもいいし、ゴロゴロ遊べる。
・大工めっちゃ減ってるけど、どうする?
藤田香織氏による「構法としての古建築」
・日本の古建築は世界の(特に木造の)研究者から非常に高い評価を得ている。そこでは「高い加工技術」「メンテナンス力」という見方をされることが多いけれど、「高い加工技術」ってなんだろう?
・そもそも古建築には、外側から見える「見えがかり」の部分と、不可視だがそれらを成立させている「見えがくれ」の部分がある。
・「見えがかり」では繊細な部材表現が行われ、構造材かのような部材も意外と構造的な重要性は低くて意匠的な側面の強いものもある。「見えがくれ」では、荒々しい部材が結構使われている。「高い加工技術」ってこっちなんじゃ?
・「見えがかり」には、いわゆる非構造材(構造に寄与しない部材)と、意匠性を意識した構造材がある。五重塔を調べてみると、元々構造材だったものが、別の構造材と、単なる飾りに分かれていくこともある
・日本の国宝/重要文化財の書院造を全部調べたら、計算上、その全てで地震に対して壁よりも柱が先に壊れる。地震の多い日本で柱が先に壊れるのは定説的には一番危険なのに。→どゆこと?
・意外と、欄間などのいわゆる非構造材も、構造評価しうるのではないか。(めちゃ大変だけど)
・建築を「死体」として扱わないために、こういった多角的な構造評価で古建築と付き合っていきたい
加藤耕一氏による「「日本の建築」から見る隈研吾」
・「一般的な「日本建築」の捉え方は、ご先祖様かのように、「死体」を並べるかのように、神聖化するもの」という指摘は重要。
・『日本の建築』を読んでいく中で、二項対立はたくさん出てくるが、それらでは日本建築の定義にはならないのではないか。そもそも日本建築における「正しさ」は「死体」として否定されている。つまり、この本は日本建築の「正しい姿」を描こうとしている訳ではないんだろう
・「日本建築史の価値観」自体、近代以降に近代の価値観の中で評価されてきた
・それは、揺れ動きながら強化されてきた「(西洋の対比の中での)ある種の被害者意識と、(その反発としての)選民思想」
・建築家「隈研吾」は叩いてもいい、みたいな風潮が建築業界内でもある。それは、隈先生が二項対立における「正しさ」の側ではなく「正しくなさそう」な(批判しやすい)側に立ち続けてきたからではないか。そして、一筋縄ではいかない二項対立の両義性の中で、それが反転して今「世界の隈研吾」として評価されているのではないか。
・実際、歴史家/理論家/思想家としての隈研吾において決定的な存在感を放つ『反オブジェクト』(2000)の時点で、モダニズム/コンクリートに対する負け組として、正統ではない側を既に選んでいる。
海野聡氏による「「日本建築」の多層性」
・とはいえ、日本の建築を見るうえで二項対立的な整理は有効。具体的には、
「高床-竪穴(えらい-ふつう)」(古代)
「大極殿-内裏(中華/律令-ヤマト/伝統)」(藤原の時期)
「和様-大仏様,禅宗様(旧-新)→折衷へ」(中世)←これは近世段階で既に区別されていたもので、本の中の「近代的「死体観」」ではない。
「寝殿造-書院造(貴族-武士)」(武士の台頭)
「書院造-茶室/数寄屋(権威化した武士/くずし)」
「寺院-神社(新宗教-原始宗教(の対応))」
「洋風建築-近代和風建築」
・こうやって整理していったときに改めて全体をマッピングしていくと、単なる二項対立の集合というよりは、複雑な多層レイヤーで表現できる(例えば、元々大陸的だったものが「和様」として日本的なものとして再解釈されている)が、これ全体をひっくるめて「和風」「日本建築」と呼びがち
・今の観点や西洋化時点の観点でこれを見返して「和風」と呼んでいるが、もっと先から現在を見返したときに近代以降の建築はどう評価できる?あるいは今、どう評価する?
・建築自体の揺らぎも存在するが、鑑賞者の中での捉え方も揺らいでいるのではないか。そもそも定めるものではないのかもしれない。
・例えば、唐招提寺金堂を参照して中国で1973年に再建された大明寺鑑真記念堂は、「日本建築」の枠組みに、入る?入らない?
東浩紀氏による「日本論としての『日本の建築』および、訂正可能性の哲学との連続性」
・『日本の建築』は一つの日本論として読める。ざっくりまとめると1️⃣日本のアイデンティティは歴史的に分裂している2️⃣明治以降西洋とその位置づけは結合した3️⃣戦前、その結合は生産的だった4️⃣戦後、その結合は変質し堕落した5️⃣それゆえ「日本」を再発見しなければならない
・特に「縄文」のくだりが非常に鋭いと思った。「縄文」という単語が近代化の隠れ蓑として機能して、議論の本質からズレていった、という構造は同時代の日本において建築以外の領域にも見られるのではないか。
・「建築はそもそも矛盾を抱えていて、言語では破綻しているように見えることも建築という表現形式では調和しうる(例:式年遷宮)」という指摘、そしてそれを「日本」にも見出すのが面白い(=永遠の修正システム)。そういう論理構成であるが故に建築材料の話題も多い→物質に注目することで新しい日本論を作れる
・この伊勢神宮の話は東浩紀『訂正可能性の哲学』における、「ある規則が新しい矛盾に出会ったときの訂正行為=持続/自己形成すること」という議論と似ている。「訂正可能性の哲学における規則:建築における素材、物質」
・『日本の建築』は思想書としても読める。『点・線・面』(2020)もそうだったが、スケールフリーネットワークの話をしているように読める。本の中で出てくる「大きい」「小さい」は、ネットワークのフラクタル構造の話かのようだし、外部と内部が境界で隔てられるのではなく、線でつながるというのは非常にネットワーク的
・訂正可能性の理論と「友/敵」→「ネットワーク」へ、という2つの話の関係性は、自分の哲学の中でも考えていきたいこと(※『訂正可能性の哲学』-『観光客の哲学』の接続について言っていると思われる)
ディスカッション(敬称略)
隈:今回歴史という分野に踏み込んでみて、まず歴史家に話を聞いてみたいと思った。最終的にこの座組みにしたのは、「物質」を扱う松村先生/藤田先生、「歴史(言語)」を扱う加藤先生/海野先生、それらをどう見ていくか、訂正可能性という点で東浩紀さんを呼んだ。改めていい座組みだった。特に「物質」についてなぜ拘りたいかというと、原広司『〈もの〉からの反撃』に感銘を受けたから。その観点を引き継いでいきたい。
加藤:マテリアルカルチャー(物質)と、テクトニックカルチャー(架構)の二つの問題が90年代以降浮上しているし、そこでの「隈研吾」の果たした役割は改めて大きい。
海野:法隆寺のように「物質」そのものとして現在まで引き継がれているものと、伊勢神宮(式年遷宮)のように「概念」として現在まで引き継がれているものがある。今の我々は一度なくなったものを再建すると別物と捉えるかもしれない(例:首里城)が、前近代では、物質が変わっていても観念的に引き継いでいたのではないか。多少時間的に穴が空いていてもあんまり気にしない、みたいな。引いた時間軸でのそういう付き合い方もある。
東:現代思想にありがちな物質/身体の単なる神秘化(他者として)でないのが良い。仕切るようにも、つなぐようにも扱える、というように、非常に具体的。仕切っているのか/つないでいるのかはあくまで解釈の問題であって、物質そのものには意味がない。「壁を作りながらつなぐ」というのは建築に限らず今後必要になってくる考え方。
藤田:具体的にどう古建築を修復していくか、というシーンを思い出してみると、「部材が同一である」ということに拘るあまり、補助部材をゴテゴテ付けざるを得ないときがある。そのような状況では、思い切って新しい部材に交換してしまうなど、「部材そのもの」の同一性よりも、「全体を継承すること」が重要だと考えている。
松村:実は和室の庶民化がはじまったのは明治以降。Q(→東)情報化社会で今は更に色々なものが民主化している。昔はエリート層の議論に過ぎなかった日本のあり方の議論、及びその延長線としての建築談義は、今後どうすればいい?
A:東「今、重要になりつつあるのは、空間や土地の格差ではなくネットワーク格差(どこに住んでいるかとどこにコミュニティがあるかは別物)。そういう意味では、社会を語る際に、空間や土地に関する議論がどんどんネットワークに関する議論になって、それで建築が出来ていくのは納得がいく。」
Q:(松村→隈)建築設計者としての隈研吾と、もの書きとしての隈研吾は一致している?分裂している?
A:隈「頭の使い方が全然違う。建築設計は、サッカーで例えると「ボールが来たからパス!」の連続で、それ自体はノンストレス。でも、時間を置いて振り返ると、気持ち悪い部分が出てくる。本を書くのは、そういった「瞬間的判断の連続」を反芻したり、固定したりするため。」
感想
面白かった!^^
ここまで読んでくれた方はわかる通り、2時間とは思えない濃密&多角的な議論で、ボールをたくさん投げてもらった、という充実感があった。
特に痺れたのは、海野先生の切り込んだ指摘と、東さんの、多分野の人たちと対話をしてきた経験値による建築界隈外だからこその指摘。単に建築設計のレベルでいうと、空間への関心からネットワークへの関心っていう指摘はその通りで、昔は建築とは呼べなかったようなコミュニティづくりだったりアクションだったりに対して建築の人が関心を示しているのは現状まさにそうな気がする(震災以降?)。個人的に最近関わらせてもらってるASIBA自体が、ネットワークをまず作ろうという動きだし、その中で自分がやっている喫煙所云々も、喫煙者-非喫煙者の境界、あるいはタバコミュニケーション的なネットワークの問題に関心がある。
一方で、個人的には、だからこそ今一度「空間」の問題に立ち返るべきなんじゃ、という気持ちもあり、(とっても民主的なインターネット及び情報に対して)特権的にしか享受できない、具体的な「場」の強みは絶対あるよな、と思っている。それがネットワークを生み出すものであろうとなかろうと。
一概に「和」「日本」と呼ぶときに、具体的に(前近代だけでも)何を指すんだろう、という海野先生の指摘は大変共感するところがあり、日本建築の話でも、もっと漠然とした日本論でも、その都度都合の良いものを出し入れしているだけに見えることも多々ある。
他の国の博物館に行くと多くの場合思うけれど、先史時代から始まってこんな文明ありましたよ、のあとに、大抵は他の文明が侵略してきて云々〜というコーナーがあり、島国って変なんだなって思わされる。逆に、地面に対して境界を引くことに対する我々の想像力が低いとも言えるかもしれない。アイヌや琉球の問題もあるけれど、「日本」という境界と民族意識はかなり結びついていて、占領軍を除けば、地理的境界が国の境界であり続けた(というストーリーを共有している、帝国時代を除き)ので、一概に日本といったときにどの時空間を指すのか、という問題はかなり難しい。
ちなみに三島由紀夫は帝国時代の一番デカかったときをデフォと認識しているらしく、大胆。
話を建築に絞ると、「「日本」を見出だせるもの」をどこまで操作して「日本性」を保持できるかという疑問が湧いてきた。例えば、畳とか障子みたいな、形式とか単位だけが転用されているものと、抽象化された垂木(コンクリートで再現)みたいな、構成が引用されているものでは、目指している「日本性」の再現方法が全く別な訳で、前者を突き詰めれば「和モダン」みたいな表層だけそれっぽくしたものになるし、後者を続ければ、前述の指摘の通り和室の数/体験そのものが減っていくのではないか。と言うような批判は簡単だけど、実際図面書いてみてと言われると、なんとも難しい。ひとまず言えるのは、下足文化が未だに残っているのはかなりすごい、ということ。
僕が日本建築史を教えてもらった小岩先生は、学期の冒頭にこんな話をしてくれた(復習したいと思って潜ったときもこの話から始まったので、多分毎回最初に話している)。それは、「みなさん今からこの授業で「日本建築史」を学ぶ訳だけれども、この言葉をどう捉えるかをまず共有したい。「日本建築/史=日本建築の歴史」なのか、「日本/建築史=日本の建築史」なのか、「日本/建築/史=建築を通して日本の歴史を考える」なのか」みたいな話で、自分から思い返しておいてどういう結論だったのかは定かではないが、個人的には、「建築を通して日本の歴史を考える」ってめっちゃ素敵だなと思った。このnoteが、ここまで読んでくれた人の日本/建築/歴史を考える一助になれれば嬉しいです😊。
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