小論・医療放射線の社会的な殺人形態について

 人工放射線は人体に百害あって一利なし、受ければ受けるほど早死にするのは自明のことであるから、ここでは社会的分析にとどめたい。すなわち、急性人工放射線である医療放射線が、どのような形で人々を「暗殺」していくのか、という想定である。
 しかし、この暗殺という表現もまた限定的な意味にとどまる。なぜなら、殺意がそこにあるのかないのかが、極めて漠然としているからこそ、このような論説が必要となっている。
 現在の政府権力はどうか分からないが、医療集団・従事者は、完全に純粋な殺意によって患者や受診者への暗殺を遂行するというわけではない。その殺害が政府による直接命令を受けているのでないならば、暗殺は形態的に成立しない。
 そして、これには二つの証拠がある。一つは放射線検査はビジネスとしての社会契約下にあること。もう一つは、医療集団による救命の論理があることである。であるから、暗殺はあくまでも、未必の故意を上限とする。ベネフィットリスクというのは、それを包摂する。
 このような概念は医療者側に独占されており、患者・受診者側の主体的な防護指針は形成されていない。しかしこの独占には、政府権力や一部の医療有識者また権威の作為によるだけなのかもしれないので、末端の医療従事者に未必の故意が常にあるとは限らない。この検査によって人が死ぬかもしれないと思いながら放射線を放つ医者や技師がどれだけいるか。したがってこの暗殺は社会的な形態となる。
 その特質は二つある。一つは人工放射線という凶器が不可視であること。もう一つは、寿命短縮という間接的な殺人形式を有していることである。
 前者に関して、医療放射線の特異的症状の因果を確認するのは極めて難しい。それは、ガンその他の疾患から放射線影響を割り出せないこと、また大規模な疫学調査の実施も困難だからである。後者については、放射線の影響で寿命が短縮されたのか、別の要因で短縮されたのかを判別するのが不可能であるという前提がある。人工放射線の影響はあまりにも長期に及ぶ。
 しかし、医療放射線による社会への暗殺効果は確実に存在する。これは放射線科学から明らかなことである。だからこの暗殺は、実在するが確認はできない、そして犯人を永遠に拘束できないという殺害行為となる。そして、この殺害が社会の全範囲にわたっている以上、それは殺戮としての形式から逃れられない。システムそのものが殺人者である、と言うべきだろう。
 医療放射線を受けることを義務化されていたり、その防護指針を授けられていなかったり、またその殺人可能性を教えられていないような国民は、絶対的な発ガンリスクを得ることになる。リスクは永遠的に減ることはない。この不可逆性は、医療放射線暗殺を推定する一つの根拠である。仮に社会の総医療被曝が胸部レントゲン一枚であっても、この分の寿命短縮が存在するとの想定は可能である。
 もちろんそれがそのまま平均寿命へ直結するかは分からない。ベネフィットリスク的な救命現象の累積が、平均寿命を引き上げることはないだろう。かたや、被曝時年齢や免疫力などの個体差や、放射線検査の社会的傾向や技術革新などによってもリスクは変動する。
 たとえば、日本のこれまでの平均寿命の上昇推移は、放射線検査がまだ整備されていない時代だったり、健診を受ける機会のない自営業者や主婦が多い世代だったり、という特性が関係あるかもしれない。そういった人々が医療放射線による暗殺を免れ、運良く今高齢者になっていると考えられてもおかしくない。
 一方、サラリーマンが多数の団塊世代の、特に男性たちは胃透視までも受ける機会があったので、照射範囲の胃や肺などのガン罹患率に寄与している可能性がある。少なくとも、その上の戦争世代よりは医療放射線包囲網の整備化の憂き目にあっているから、ガン死率においてはより高くなることが必定だろう。現代に至っては女性もほとんど会社健診を受ける。マンモグラフィーなどのオプションも設置されているので、状況は悪化の一途をたどっている。
 ガン死率によってのみ平均寿命推移を測定すれば、ほぼ確実に平均寿命は鈍化していることになる。世代を追うごとに医療放射線包囲網に捕らわれる情勢なので、下の世代ほどガン死率が高まっていく傾向となるのである。むろん、人工放射線の不可逆的なリスクがその証拠となる。
 医療放射線包囲網には二種がある。一つは胸部レントゲンのような強制的な寿命短縮システム、もう一つは、国民の健康不安を煽り立て放射線検査へと引きずり込むという洗脳方式である。
 前者は直接的な殺戮行為であり、学校や会社では、実にあからさまな形で寿命短縮が国民に対して要求されていることになる。レントゲンシステムは本来結核検査が本領であり、さらにそのガン治療の成果がもはや疑わしいのは定説である。もしレントゲンからの早期発見切除を行わずに放置した場合との寿命比較は困難だからだ。しかし、レントゲンは確実に寿命を短縮する人工放射線なのである。それどころか、そこから精密胸部CTスキャンに引き上げられれば、患者は早期に肺ガンにかかる可能性がある。
 また胃透視ですら義務化されているケースも多々あり、照射範囲の胃、肺、胆管、胆のう、すい臓に、強制的に発ガン因子が振りまかれているかもしれないことになる。しかも、技師の技量によって線量が変わるという検査であり、下手な技師にあたってしまったがゆえに被曝量がばく大になり、上記の部位のガンで死んだ受診者も多くいるかもしれない。どこの会社に所属しているか、深夜業務に従事しているか、などで被曝量も変わってくる。
 後者の洗脳方式は更に恐るべきものかもしれない。ガンは自覚症状がない、だから早期発見が肝要などの無根拠な喧伝により、国民が精神不安や些細な体の不調に耐えられずに、会社健診で不要な被曝オプションを付けたり、自ら頻繁に病院に足を運んだりする。放射線履歴が全的に確認できるシステムはわが国にはないが、しかし何よりも医療従事者は自らが暗殺するかもしれないという切迫した心理状態にはない。医療放射線無害のドグマを制するものは、ここでは何もないに等しい。全権は医療者に委ねられており、患者も従うよりほかにはない。多少知識や経験のある医者ならば、CTは最後の最後にとっておき、まずは心電図、採血、それからMRI、エコー、レントゲンと段を踏むだろう。そうでない医師ならば、いきなりCTをとるかもしれない。これは命の分かれ目であり、暗殺の決定的瞬間である。むろん誰にも悪意はなく、無知が悲劇を呼ぶ。
 このような陰惨なケースには無知とともに、社会的な外部要因によっても引き起こされている。医療集団の「見落とし」という診断の過失は、社会的な糾弾を受けるわけだが、これを医療集団は当然に恐れている。それは単なる医療倫理の問題ではなしに、個別組織の評判から医療従事者の生計まで、さまざまな所に影響が及ぶ。医療集団また医療従事者の多くは民間業者なので、いかに健康イデオロギーの体制下にあるといえ、政治的に保護されているわけではない。結果、拙速軽率に、高度放射線検査を医療者が選択してしまうことは大いにある。
 しかし医療集団は単なる慈善家ではなく、営利組織としての顔を持つ。いち早く救命せねばという倫理から暗殺を選択してしまう集団や個人もいれば、救命意識よりも営利精神が前面に出ている組織もあるだろう。最新の健診ビジネスなどがその好例である。定期健診でCTやPETを推奨する施設も散見される。このような施設で、強迫的に全身をくまなく調べていれば、受診者は自ら余命を削りとっているようなものであり、また医療者は儀式的な殺人に手を染めているに等しい。緊急性という物差しのない医療被曝は、設備の改進や健康イデオロギーの宣伝にともなって、暗殺件数を飛躍的に高めていることが推測される(腹部エコー検査ですら、DNA切断を引き起こすという資料もある。申し訳ないが、どこで見たかは記憶していない)。

 医療放射線による暗殺実績が途方もないものである可能性は、もはや否定することはできない状況である。しかし、医療放射線包囲網が緩まる傾向はない。被曝設備は鮮明な画像を得るため日夜「改悪」されている。この理由が、医療放射線検査や治療の寿命延長効果ではないことは確かである。なぜなら、それは測定不可能だからだ。医療放射線無害のドグマがどこを根源にするのか、実は誰も分かっていない。

 ではこの包囲網を人民が突破して、自らのまた愛する者の命を守るためにはどうすればいいのか。
 そのためには、何よりも

 1、人工放射線についての知識
     2、健康の自己管理
     3、犠牲者たちへの想像

 という主体的で精神的な用意が必要である。
 特に3は重要である。なぜあの人がガンになったのか。若いのに、この間まで元気だったのに…。もしかしたら暗殺されたのではないか。この推理によって、我々は医療放射線の暗殺の痕跡に近づくことができる。
 今日の医療放射線包囲網の時代は、きっと後代から殺戮の時代と見なされるだろう。歴史は常に残酷であり、前進するために多くの無辜の犠牲者を必要とする。 
 しかしだからこそ、真の平和はまず追悼から始まる。

        


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