外国人世界
これまで外国人存在は、治者・被治者の共通の敵であった。これこそが古の国家の論理の基柱であった。それゆえにこの存在のあらゆる方面からの流入を防ぐこともまた共通の目的であった。
ところがその原理は変じつつある。いまや外国人存在は治者にとっては政治・経済の協力者であり、被治者にとっては秩序と治安を脅かす侵略者にすぎない。政府は、外国人は協働者であるから共生しなければならないと言い、被治者はそれに対して何らかの抵抗の意志を示す。しかるに、権力を持つ者が国を指導するわけであるから、被治者は置き去りにされてしまう。外国人の流入者のいかなる例外的な暴力的・犯罪行為に対しても、政治的な認識が治者から発せられることはない。治者にとってはもはや外国人は国民同様の存在であり、それらはただの犯罪として司法体へと送られるばかりである。ややもすると司法体の人権主義の度合によっては、外国人に対して有利な判決を下す場合もあるだろう。
この国民に対する「囲い込み」政策は、全く新しい現象である。それは最も狡猾な自殺的意義を有する政策であり、また完全で奇態な包囲戦である。政府は外国人勢力の尖兵であり、外国人たちは無限の母国を根拠地として持ち、そこから我が国にやってくる、という構図もまんざら空想ではない。現にこれまで自国民の生命、財産、福祉・・・が残酷な形でこの「平和」と呼ばれる時代において奪われてきたのである。しかり、これは戦争そのものである。しかし内戦としては余りにも残酷である。古今外国人勢力の介入を経て繰り広げられた内戦はあったが、それはまず国民の秩序破壊行動が伴われていた。ところが、現代の経済世界における内戦は、政府がただ外国人を自国民に差し向けるところが始まる。それは戦争なのか弾圧なのかも分からないうちに、共生が強いる。生産体の維持、人権理念の向上、国際的圧力への迎合・・・、これらの政府の目的は、被治者の意志と権利とは何の関係ももっていない。火種は政府の一方的な意志であって、国民との衝突を因由にしているわけではない。このような前提において、外国人勢力が流入してくる現象は未曽有のものなのである。