科学技術と国家
我々は科学技術をもって、国家と民族の保護を行うことを当然の課題とすべきであるか。もちろん、それらが角逐するということはあるかもしれない。なぜなら、国家と民族の性質は自然的であることによって本質的であるのだが、近代的洗礼は、その性質を法的なものへと転換させてしまうからである。しかしながら近代的世界は、諸国家が近代的洗礼を受けることによって自らを強化しようとするという傾向を持つのであり、それなくしては或る一国が自国防衛の任務を果たすことにおいて困難が生じることになる。
国家的ロマン主義者たちは、国家の自然的性質を最重要し、それと並行して、国家的な発展が遂げられることを夢見ている。ここで重要なのは、自然的性質が守られるかどうかというよりも、自然的性質をどうやって守るかということにあるのである。だが国家的ロマン主義達は、自然的性質を「自然的(伝統的)なやり方」で守ることに強く拘泥するのである。彼らは目的の性質と方法の性質を統一しようとする。もとより、この統一そのものが一つの合理主義である場合もある。銃をもって戦うよりも、日本刀を持って日本の為に戦うほうが、旧来的で戦力的には劣るが、何より士気が上がる、というような我々の先人が持っていた姿勢のように。しかし国家的ロマン主義者達は、その合理主義さえも否定する。つまり結果が伴わなくとも、全てが自然的であればいいというのが、国家的ロマン主義者たちの態度なのである。
この陶酔主義は、国家と民族の発展どころか、その護持にも寄与することはないことは自明である。国家はその本質を過去から発する精神に依存するものであるが、しかし、その肉体は政体および民族体の固守によって維持されねばならない。そのどちらも欠落してはならない。どちらかが欠落する時は、国家が滅亡する時である。それゆえ、近代国家における諸技術、とりわけ科学技術によって国家・民族体を守ろうとすることは、近代国家において唯一ではないが、次善の国家存続の道となる。しかしその目的は、肉体という最硬の原理に結実せねば無意味になる。