社会は時に天罰を欲する

 人間社会の無慈悲。これはどの文化圏でも、どの分野でも準則だ。そこでは、技術や知恵という実体があるのかないのか分からないほどに、人間が物象化されているのだ。一人の人間とパソコンの価値のどちらが高いか、それは社会にとっても観測者にとっても不確定だ。
 あなたの命を助けたいとアピールする組織が容赦なく治療費を請求し、日本人は素晴らしいと自賛する政治家が外国人労働者の受け入れに躍起になり、あなたたちは幸福になる権利があるとのたまう教師たちが子供たちの自由を奪っている。困窮者が、国民が、弱者がなどと耳当たりのよい言葉が錯綜する社会と、昼間の雑踏や夜の酩酊が見せる社会の裏の顔には落差がありすぎる。
 人間社会は滅びた方がこの世界のためだ、という隠棲者の慷慨もまた、社会の裏の顔の一つだろうか。しかしながら、未曾有の天災や戦争が急襲したとき、人間はなぜかみな隠棲者の心境になったりする。
 なぜ無名の人々は、時に大難事の犠牲を買ってでたのか。それはおそらく、彼の心奥に、神に罰せられたい、自らもろともこの忌まわしい社会を消してくれ、という覚醒のようなものがあったからではないか。それほどまでに、日常で繰り広げられる人間世界は、いつの世界も無責任と独善に支配されていたのでないか。
 ドストエフスキーの「罪と罰」のズヴィドリガイロフは、自分の淫蕩を呪っていた。色目で見ていた女性に「危ないからはやくあっちに行きなさい」と、完全な自己客観視でもって、彼女を己から追い払い守った。そして、ピストルで自殺した。
 社会はきっとどこかで天罰を欲しているのだ。怪物や機械に乗っ取られた自己を解放してほしいと切願しているのだ。いつかまた苛烈な事象が世をおおうだろうが、それは暗に人間の隠れた念願が集合体になったからかもしれない。  

 パクスロマーナで堕落した古代ローマにアッティラがやって来た。人々は彼を悪魔と呼ばず、神の鞭と称したのだった。

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