社会放射線 -被曝と人生-

 放射線の見えない効果は、ある意味では宇宙による生命に対する支配とも言えるだろう。確かに宇宙からは放射線が放出されており、それが地球をおおっている。放射線が神学のモチーフを持つのはこのためだ。もしかしたら、放射線がなくなれば人間は永遠に生きていけるのかもしれない。
 
 被曝は細胞体にとって宿命なのだ。ラジウムやウランといった放射性物質も、自然の中に元々ある。しかし概して自然はルソーの言うように、人間の手がついていないときは過大な害を与えないが、人力はこの状況を一変させてしまう。自然のうちには、循環や均衡のための異常が最小限に抑えられる原理が含まれているが、人力はこの原理を破壊する。異常の数を過剰に増大させるのだ。そして、それを解消するためにさらに自然を改編しようとする、という悪循環が人間の技術や精神に刷り込まれている。近代史における資源浪費や技術革新は、常に自然からの反動を伴っている。

 被曝もまたこの歴史に巻き込まれている。自然放射線の線量率は、少なくとも人体に100歳まで生きることを許しているが、人工放射線はそうではない。線量が人力によって調整されると線量率が高まり、身体機能や染色体の異常が引き起こされることになる。地球を包囲する放射線よりも、社会を包囲する放射線のほうがはるかに危険なのだ。

 しかし、ここにはもうひとつの見えない効果がある。それは放射線の質的な不可視性にもとづいて、社会が人工放射線の危険性を受容しようとすることだ。自然放射線と人工放射線を線量率ではなく線量で比較するというドグマがそこにはあるが、これが社会の寿命削減効果を促進することは疑いない。

 医療被曝に誘発される高染色体異常を隠す、エネルギー自存のために原子力発電所を増設する、非破壊検査従事者を高賃金で募集する、などの作為的な社会的な現象は、見えない殺人効果を有しており、その実績はすでに確たるものだ。

 この「社会放射線」とも言うべき現象は、今、生きている我々の目前に確実にある危険であり、自然放射線による寿命影響よりもさらに深刻な被害を及ぼすことは想像にかたくない。社会的放射線は病院から工場に至るまで設置されており、その殺人的な意義は種を異にしない。しかしその殺人性の真の恐ろしさは、やはりそれが無害のように思わせられていることである。

 被曝は現代人にとって宿命だが、それは社会放射線という地雷があちこち極秘裏に設置されていることを意味する。地雷を踏んでしまった者は、寿命を削減される。それは一瞬のことであり、誰もその一瞬で人生が変わるとは思わない。そして社会もまた、決して人工放射線と寿命削減の関係を明らかにはしないだろう。
 
 突然誰かがガンで死んだり、原因不明の病に陥る。彼は地雷を踏んだのかもしれない。また、自分が地雷を踏んだことを知った者は、原爆被害者と同じように恐怖に駆られるだろう。だが、彼の精神的な苦痛は抹殺される。

 この平和社会は社会放射線による犠牲者たちの屍の上で成立している。壮大な社会実験の餌食になるかならないかは、最後には個人の知識と運が決める。しかしだからこそ、社会はいつの時代でも悪なのであり、人生は悲劇に属するのだ。生き延びる者と死ぬ者。

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