小論・医療放射線の社会的な殺人形態について(終)

 多くの人を隠密に早期ガン死に追いやっているCTスキャンをはじめとした医療放射線。これによるガン死の社会的な機序はいまだに正確な推測を許さないが、千思万考の余地があるのは言うまでもない。少なくとも、人工放射線の性質を考えれば、医療放射線が人々を殺戮していることは間違いない。そこで医療放射線がどのように個別の殺人を遂行するか、あるいはその機序に関わるかシミュレートしてみることはむだでは無いだろう。

 まず医療放射線の規制はわが国においては無い。そして医療放射線による殺人可能性はほぼ無きものとされている。この殺戮のための前提を踏まえよう。
 
 現在のこの無秩序において、患者には二種類の放射線検査の受検パターンが存在する。一つは、自らの体調不良や健康不安に耐えられずに自主的に病院で医療放射線を受けてしまう、もう一つは健康診断で引っ掛かりCTスキャンなどへと引きずり込まれてしまうというパターンである。

 どちらのパターンも、ガンを治療するという実効性を持たない。それは人工放射線の明確な発ガンエビデンス、それから致命ガンの特質が断定できないという診断上の限界を考えれば分かることだ。つまり、患者は命のギャンブルをさせられていることになる。放射線検査にはすべて、この犯罪性が付する。
 
 だが同時にいずれのパターンも、個別の医療機関の対応や対応者によって異なってくる場合もある。医療被曝についてのリスクを理解しているかどうかは、各医療者の見識や感性によって異なる。一次検査であろうと二次検査であろうと、CTをお構いなしに打ち込んできたり推奨したりする犯罪者もいれば、慎重に慎重を持する医療者もいるだろう。

 この確率的な問題で、患者の寿命は変更され、死因は決定される。人工放射線蓄積は、絶対リスクであろうと、相対リスクであろうと、自然寿命の短縮に確実に寄与する。現代に特徴的な早発ガン者の多くは、医療放射線を受ける機会を、比較的多く持った者であることが推察される。もちろん、大量飲酒を10代から欠かさず習慣にしていたり、放射線ではなく、同じくDNA切断を伴う超音波検査を継続的に受けていたりする場合もあるだろう。これらは胸部レントゲンの蓄積くらいとは遜色はないかもしれない。
 
 しかし少なくとも、若年層や壮年層の細胞秩序を、CTスキャン一回が与えるダメージ以上に破壊する、生活因子その他の悪蓄積は無いだろう。確率的には、わが国の医療体制の放射線無知と無秩序を考えれば、CTなどの高度放射線一回を受ける確率は、その他の交絡因子の過剰蓄積よりもはるかに高い。早発ガン者の放射線履歴を調べれば、CT、マンモグラフィー、胃透視、PETなどの受検が、高い確率で検出されるだろう。そしてその回数は、必ずしも多くはないかもしれない。一回でも十分早くにガン死に追いやることが可能なのが、医療放射線である。

 さて、健診のような一次検査の場合、放射線検査は低線量であることが多い。そして検査は基本、何もなければ一年に一回の頻度である。それゆえ、健診による放射線発ガンは、遅緩なペースで進行することが考えられる。  
 もちろん、上記の例に当てはまらない場合もあるが、そこは各受診者や医療機関の性質によって異なる。PETCTなどの高度放射線検査を健診機関で受けることは可能であり、この場合、一度の検査でも少なくとも20年以内には受診者は発ガンするだろう。いずれにせよ、どんな低線量だろうと、健診で被曝する意義など無い。
 
 もし健診のような一次検査で引っ掛かれば二次精密が待っている。ここでの精密の意味は、鮮明な画像を得るために、患者により高線量の放射線を浴びせるということである。
 この引きずり込みで、患者の大幅な寿命削減が決定する。一次が腹部エコーならば、二次は腹部CT、肺に関しては一次の10倍近くの線量のCTを強いられるといった具合だ。
 この時点で殺人行為は成立したも同然だが、更に経過観察が継続されるかもしれないし、下手をすると手術を求められるかもしれない。むろん、更に寿命は短縮する。しかし、一連の過程で寿命が延びたという科学的な証拠を、医療者は提示することができない。ただガン治療のドグマに基づいて、救命成功と言い張るのみだ。だが、放射線による染色体異常は確実にその後も残る。
 例外として、一切、放射線検査を受けずに運良く手術にまで至り(たとえばMRIのみの術前後確認)、しかも手術が侵襲的でない場合だったり、当該腫瘍が小さい場合などは、自然寿命を短縮しないこともあるだろうが、これはレアケースだろう。
 このような患者は、実に幸運である。もちろんそこでも、手術はただの気休めの意味しか持たないかもしれない。放置しても問題なかった腫瘍であるとの疑念は残り続けるからだ。病理組織的に悪性だろうと、転移さえしなければよいのである。
 
 二次検査を請け負う総合病院などは、基本的に高度被曝検査を常態とする。つまり、健診機関よりも危険な施設である。放射線無知と無秩序も常態化しているので、もし直接に総合病院に赴けば、高度放射線検査を受けさせられる確率が高い。国民皆保険を前提にすれば、仮に大病院でも初診料をいくらか払えば3割負担で診てもらえる。しかし、この状況こそが医療放射線殺人の頻度を高める可能性があるのだ。放射線無知の医師は、すぐに高度被曝検査を患者に勧めるかもしれない。もし、ここで何らかの所見を出されたら、患者は寿命短縮ルートにのせられる可能性がある。
 最も危険なのは救急外来である。体調不良や不定愁訴でそこに足を踏み入れれば、対応する医療者は過失を恐れるがために、やにわにCTスキャンを取ろうとするだろう。患者が意識明晰でも、全身CTさえ躊躇しないかもしれない。そうなると、患者はほとんどわざわざ殺されに行ったことになる。

 ところで、医療者の過失の恐ろしさの真髄は、見落としという論理でもって医療放射線発ガンを抹消することにある。たとえば、前のCTスキャンの時にはあまりよく画像に映っていなかった結節が、次の検査時には悪性化していたというケースである。
 これが医療集団の自作自演か、それともそれほどまでに放射線無知に隙がないのかは、別のテーマだが、とにかく、医療集団は前回のCTスキャンが、ガンの悪性化や悪性の腫瘍を誘発したという科学的な見解を、絶対に出さないという論理のもとに放射線検査を実施している。見落としは、ここでは最も効力のある方便である。なぜならば、見落とさないために、さらなる医療被曝の促進に注力するという論理が出来上がるからである。
 
 この論理は、特に救急外来や高度被曝設備を有する総合病院で強力になるだろう。健診施設よりも、そこでは患者の被曝を考慮しない傾向があるかもしれない。別言すれば、ガン治療と称される技術や方法が完備されている大病院のほうが、より急速にガンを致命化させる姿勢を有しているということになる。簡易な定期健診や、医院などの小規模のかかりつけを飛び越えて総合病院に患者が直進することは、患者自身はそのほうが治癒のための最短経路だと認識するかもしれないが、それは寿命短縮の最短経路のことになってしまうのである。

 寿命短縮ルートに引っ掛かるかどうかは、運と、患者の性格によることが分かるだろう。ともあれ、偽陽性を見つけられてしまったら患者に逃げ場はない。よっぽど医療放射線の殺人性に詳しい人間でなければ、高度放射線検査や経過観察の魔の手にはまる。
 そして、最後に彼を待ち受けるものは、言うまでもなく、放射線治療という超高度被曝と、抗がん剤という最大のギャンブルである。放射線治療の線量は総量的にはとてつもないが、線量率ではCTスキャン以下である。またピンポイントであるがゆえに必ずしもCTスキャンよりも発ガンが早発しやすいとは言えないかもしれない。抗がん剤に関しては、血液ガンには有用であるというエビデンスはすでに確立されている。しかし、どちらも染色体異常を誘発する治療である。
 さて、もし両治療が、最初から寿命短縮ルートの終点に設置された上で実施されるならば、それは現代医療というものが、偽陽性などのきっかけでもって、一人の患者を急速にガン化させ、最後には抗がん剤が効かないまでに追い込んだことを意味することになる。これば、現代社会で、最も残忍非道な殺人である。無知な患者は偽陽性に気をもみ、標準治療にすがって、金と時間を浪費させられ、挙げ句、金と命を医療集団に奪われる。

 これは妄想ではない。確実にその事実はこの社会に実在する。しかし、医療集団はその殺人を糾弾されるどころか、寿命短縮ルートにのせられた患者の人生の断片を、堂々とレポートすることが許される。しかし短期的には成功に見せかけられるが、患者の寿命はごっそりと削り取られているのが真実なのだ。  
 このような殺人レポートはネット上に無数にPDFで公開されている。医療放射線の真実を知る者にとって、すべて背筋が凍る人体実験の報告なのである。

 この小論でひとまず、医療放射線の社会に対する残酷な殺人効果を仔細に説明することができた。人工放射線の実体を知ることが、我々の社会で崇拝されている集団や職能者による殺戮を知ることになるというのは、誰しもショッキングなことだ。それは自分がもうすぐ死ぬことを推知することかもしれないし、自分が殺人に手を染めてしまったことを知ることかもしれない。
 しかしともあれ、確信に値することとして、医療放射線がなくなればガン死者は著減し、逆にその存置は合法的な殺戮を継続させる、と結語して、本論を終えたい。

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