日本人、それは個人主義の永遠の怪物
西洋的個人主義は、自然法概念を包摂する一神教世界に淵源する。だから、その個人主義は神に帰属する。人権もまた同様である。つまり、西洋的個人主義は、その個人主義のための全体的アプローチを確固として有している。西洋人にとって、個人主義は動機ではなく、対象である。
しかし西洋化された我が民族には、このアプローチの持ち主は皆無だ。それは真正な個人主義の原理たる全体的な制約を、この民族が最初から持たないからだ。正義や真理は、どうやら日本人にとって永遠に無縁のようだ。
この皮相な個人主義は、中国や朝鮮ですら及ばない冷徹さを有する。なぜならこれらの圏域は、家族主義のほうが個人主義よりも強力だからである。しかし、日本人にとっての家族は個人の幸福のためだけにある。血統という人間文化すら、本当は日本人は持っていない。
日本民族、これは生来の個人主義を有する存在である。自然のままに生まれた原始人が、天衣無縫に自然を駆け回るように、現代世界を横切る。他人への配慮、礼儀作法へのこだわり、清潔感などの要素は、自己防衛の手段に過ぎない。
日本人は神や血統への服従を持たない。だからこそ、無節操に外国文化へ次から次へととびつくのであり、それもまた外国から自分の身を守るためである。他者へのよそよそしい無抵抗は、もっとも粘着的な個人主義の表れなのだ。
マッカーサーが日本人を子供と称した理由はここにある。日本人がもし大人だったら、今でも天皇陛下万歳を叫んでいるだろう。飽きた玩具を簡単に捨てたのだ。
和辻哲郎の「古寺巡礼」は、中国や朝鮮と対照的に、貴重な仏像ががらくた同然に道端に放られている近代日本を描いていた。また、アメリカンデモクラシーは最も禁欲的で厳格な宗教を手放さないが、日本人はそのデモクラシーに寄生する形で、軽々と儒教の風紀を投げ捨てた。
さあ、生まれたての赤子の無敵の個人主義は、次は何を捨て、何に目移りするだろうか?
きっと今度もうまくいかないだろう。