生まれてから死ぬまでを結ぶのが運命か

 ライプニッツが述べた予定調和説は、神的世界から物質世界への下降というイメージを採用している。神意が上位にあり、人心が帰属するという構造によって、運命という現象が解説されている。物質世界の具象的な複雑さは、神意という抽象に還元されると理解してもいいだろう。そこでは時間が捨象されており、空間的なビジョンによって運命がとらえられている。確かにモナドの概念も空間的な構造である。言い換えると、ここでいう運命とは、現象そのものである。生と死をつなぐものは時間ではなく、空間である。
 これとは違った文脈、たとえばベルクソンのエラン・ヴィタールのような概念は、我々の生きた感覚により運命を表現する。量的な時間ではなく、持続する時間として、意識が運命を描像する。選択肢が示されつつも、それは現前するものではなく、あとから回顧されるものである。すなわち、選択肢を理性が再規定している。予定調和説のような包摂的な選択肢ではなく、自我の欲するところの選択肢なのである。
 持続する時間もまた、理性による量的な配分により、時間を再調整する。「ああしておけばよかった」という悔恨は、すでに量的な反省である。生と死を連結させる運命は、完全に持続する意識によっては表象されない。それは理性的な存在には不可能だ。

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