ユンガー・ビジョン
エルンスト・ユンガーは主著『労働者 -支配と形態-』における形態論のなかで、イリュージョンとしての秩序構想を描いている。そこでは労働者は霊体的な存在として、有機的な自然と機械的な技術を媒介する役割をあてがわれている。民主主義的また市場経済的な抽象による制約は排除されており、マルクス的なユートピアや史的唯物論も介入できない仕様となっている。
端的に言うと、そこにおける労働者秩序の形態は、ただ倫理によって内的な生命力を与えられている。なぜならば、ユンガーの労働共同体では、倫理を宿した機械体による英雄的現実主義が展開されるからだ。自己犠牲という生の形態だけが、硬直した皮膚と任務への情熱を融合させる。かたやユンガーは労働者による政治的な革命を、非機械的な細胞の総和として軽視している。新しい秩序は総和ではなく、形態によって、労働者をより高みに引き上げる。
更に、これは古代ギリシャ的な主体的英雄形態でもなく、むしろ人体実験の犠牲者としての英雄形態と連関する。ユンガーが現場指揮官として参加した第一次世界大戦という技術的沸点は、数多の戦士を死に至らしめたが、それは勝敗を決める土俵ではなく、一つの壮大な作業場として現出していた。戦士たちは労働過程における犠牲者として死の宿命を全うしたのであり、戦闘の内外面の技術制式がそれを証明していた。
内的な戦争経験が伴儀として労働秩序の中へ入り込むとき、両者に通低するのは犠牲性だけである。ユンガーのビジョンを平和社会に転用することは不可能ではない。そこでも労働にまつわるあらゆる犠牲が、倫理と技術の関係を再定義していく。戦争の宿年の課題が平和に継承されると言っていいだろう。
つまり、労働が社会を支配するかぎり、平和は戦争の形態を宿すのだ。犠牲者は今でも累積されている。政治に属さないイリュージョンとしての秩序完成のために。