政体の撮像

 国家の存続という問題に関しては、往々にして、君主制よりも共和制のほうが適していると言われている。これは、常に政治の悪性について考えるときには、その論拠を持っている。というのも、政治上の腐敗や問題は、君主制の時のほうが共和制の時よりも深刻なのは疑いないからである。これは、民衆が君主よりも相対的に賢明であるからというわけではない。君主制における悪徳は単一の人間によって実践されるわけであるが、その悪徳が君主の政治的自由において可能なものであることを実体験から彼が知る時、彼が人間である以上、彼が続けて何らかの悪徳に手をそめることは限りなく高いのである。そして、一度彼がそのような性質を獲得してしまったら、国家は彼の欲望の為に全てをささげなければならなくなるのである。しかし、共和制においては、このような自由は許され得ない。というのも、そこにおいては、権力が単一の人間に集中することはまれであるし、また仮にそのような事態が生じても、その権力を殺ぐ機能が具備されているからである。そして、何より共和制における主権者は民衆であり、その了解が全ての国民に平等に付与されている。誰か一人でも、何らかの政治的にして独善的な悪徳をはかれば、必ず多数者が彼を糾弾し、彼から自由を奪うのである。
 これはあくまでも政治上の悪徳に関する問題だが、高徳の問題になると、これと同質の原理が働くとはかぎらない。この時、君主は最高に賢明で篤厚である。彼をしのぐ徳を持った人間は国家内に存在しないとする。彼はあらゆる自己犠牲をいとわず、国家と国民の為の政務を実行する。生活は貧民ほどに質素で、国庫の負担を減らすために節倹に励んでいる。外国の侵略に対する防備への着意は強いものがあり、一人の国民の被害もださないという意志を燃やしている。そして、国民の自由を尊重し、そのあらゆる活動に対する制縛を緩やかなものにしようという改革に積極的である。これは正に英明なる君主だからこそできる政事である。そして、彼の威徳は臣民の敬意を集め、彼らは自らの君主と国家の為ならば、その身命をおしまないという覚悟で、生活を送り、義務に従事する。この理想的な君主国家の状態において、共和制を導入することは、つまり、君主制度を廃止することは、その国家の状態を悪変せしめるだけではなく、国家自体を根本的に変えてしまう恐れがある。それは、ほぼ確実な事である。
 長期的な観点では、この時点における共和制の導入は、他のあらゆる時世におけるその導入と同じように、国家の歴史の存続に寄与するものである、という意見をここで信じるわけにはどうしてもいかない。というのも、このような指摘を発する者は、その君主国家の状態は、次の代の君主の説きには、定めし悪化しているという予測の下に、その時分の共和制の導入の正当性を唱えるのである。しかし、これはあくまでも予測である。予測を理論にすることは、現実を空夢とみなすことと同義である。良き君主が連続して、連綿と出現しないという保証は現実世界においては、どこにもないのである。
 共和制の支持者あるいは民主主義の国家に対する効力の発見者たちは、このような現実の偶然性に依拠して、彼らの共和国ないし民主国家の政治的範型の特性を規定していることを忘れてはならないだろう。君主制にたいする共和制の利点は、蟠踞した思想の下に主張されているわけではないことを考えたとき、我々は現実的世界における、政治的な判断を、政治学や政治思想からそのまま引っ張りだすわけにはいかないことに気づかされるであろう。そして、言わずもがな、史的挙例をもってしてことたれりなどという行動様式を保持することなどは、論外なのである。

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