早発ガン、その政治的な意味
もはや軍事全体主義でも労働全体主義でもない。福祉全体主義こそが、すなわち医療こそが現代世界において絶対的な政治権力として現出している。すべての人体に対するリスクのある施療は患者にとって恩恵となるわけだが、だからこそ、医原病に対する責任、あるいは長期的な発ガン予測などは、診断の政治的な絶対価値の前に、つゆと消える。
福祉全体主義は、人体実験としての構造から解放されない。ワクチンや薬剤への専管権があるかぎり、人体実験は無制限の射程を持つ。確かに感染症による短命化を、現代医療は防いだ。しかし早発ガンはその代価として出現した。30、40、50代での発ガン。そこに病院が関わっていないとは、到底言えない。幼時の頭部打撲、盲腸、ぜんそくなどへのCTが発ガンに関わっているかもしれないという、隠微な構造は実に恐ろしい。
早発ガンは、医療を含め、あらゆる人間の技術的、経済的なシステムの産物により惹起される「突然変異」である。自然からの復讐という寓意こそが、早発ガンの表象であることを銘記しなければならない。しかし、経済や産業に対しては、ほうぼうからの道徳的な批判は頻発しているが、一方、医療は聖域である。医療がもし真に道徳的な指針を持つならば、聖域化されることは自浄作用によって拒絶されるだろう。しかし、人体実験は抜け穴だらけのフォーディズムによって、いまだ院内で継続されている。
早発ガンの加速化がどのような遷移を見せるのかは、予断を許さない。またそれに対する施療も、向後、革新的な発展を遂げるかもしれない。しかしながら、発展のために、犠牲者の死体が累々と重なっているのが、人体実験の片面にあることを忘れてはいけない。