核弾頭の二重表象
ある命題の下ならば、核弾頭には倫理的な表象が付される、と指摘したら、時流へのわざとらしい逆なでに思われることだろう。もとより、大量殺戮が倫理的であるはずがないし、それは永遠に断罪されなければならない悪であるに決まっている。
しかし、ここで述べたいのは技術の問題である。最も分かりやすい比較は、日本人が受けた被害として、アメリカの戦争犯罪とソ連の戦争犯罪のどちらが非人道的だったか、ということだ。もちろんソ連の原始的な犯罪が、アメリカの核弾頭に比べて、日本の左翼知識人などによって過小評価されている、というようなことを言いたいわけではない。極言すれば、スイッチ一つで多くの人間を殺すことと、輪姦殺人に加わることのどちらが悪であるか、ということだ。
こんな比較は無意味で野暮かもしれないが、しかし、同じような比較は現代の平和社会でも可能だ。今や高度な技術犯罪であればあるほど社会の注目を浴び、しばしばセンセーショナルに報じられる。かたや、人面獣心、いや獣ですらなしえないような酸鼻で淫猥極まる殺人は、その内容については詳しく報じられない。仮に被害者のプライバシーというメディアの逃げ口上をはぶいても、お茶の間の人はチャンネルを変えるだろう。
技術犯罪に対する関心に人々が飛び付くのは、罪をおかしているのが自分と同じ人間だという安心感があるからではないか。そしてその安心感のより所は、彼が技術による統制に服した人間だから、という理由ではないか。
核弾頭への怒りという表象が、世間にも世界的にも受け入れられるのは、結局は罪を技術のせいにできるから、という無意識のせいかもしれない。いわば、技術には罪があっても、使用者には罪がないという論理があらかじめ前提をつくっている。そして、罪をおかした者もスイッチを押しただけであるから、その凶暴性には制限がつけられることになる。
この印象心理は人間の良心に基づくものでもあるが、しかし技術犯罪者が凶暴でないという根拠にはならない。アメリカ軍もまた性的暴行に及んだだろうし、対して、ソ連兵はレンドリースによる新兵器を使いこなせただろう。同じ様な問いたては平和社会でも成立する。
人間性というものが技術といったん関係すると、その善悪を判別することは極めて困難になる。確かに、真面目な公務員がちょっとはめを外してネットで違法コンテンツをダウンロードすることのほうが、独り暮らしの女性宅に侵入して暴行殺人に及ぶ事件よりも、語るにはたやすいことだ。それはかの公務員のほうが、生まれながらの犯罪者よりも倫理的であることを、人々が本能的に知っているからだ。
残忍なことだが、核弾頭への政治的な批判は、いまだ人間悪への正当な批判には昇格できていない。それが技術への負い目から来るのか、真正な悪に対する及び腰に基づくのかは分からないが。