現代医療とは人体実験そのもの
たとえば二次ガン可能性を踏まえて、現代のガン治療は実施される。放射線や抗がん剤。もし、ガン治療を受けなかったらどうなるかは、誰にも推測できない。つまり、医療は科学的な根拠による寿命算定ではなく、その治療による寿命延長効果は、無治療の時と永遠に比較できないものである。すなわち、現代のガン治療はギャンブルか儀式としての社会形態から脱化することが決してできない。
にもかかわらず、なぜ標準治療などという社会的様式が市民権を得ているのか。それは当然、政治的な構造に起因する。ガンを感染症などの病と同一視する視座が、それである。
宗教は悪魔的な存在を必ず持つ。現代医療にとってガンはベルゼブブのような存在である。しかし、当のガンは個体に属する細胞である。つまり、敵か味方かを決めるのはまず個体であり、それこそが真正な宗教の基盤であるはずだ。だが現代医療は、宗教の独占を科学を騙ることによって行う。それはまさしく政治的動機を持つ。
政治においては利益が目的とされている。何の利益か。それは患者の人体を試料にした、治療データや効果の収集および宣伝である。医療利権という経済概念にとどまらない、人間本能ないし、集団本能としての「威権」の拡充。それこそが短期余命の延長を報告する医療レポートである。
むろん、長期余命はそこでは触れられることはない。追跡調査が面倒だからではなく、被験者の長期余命が平均寿命に到達できない可能性のほうが高いことが、薄々理解されているからである。5年という限定余命区分は、現代医療の人体実験性を示す実に分かりやすい証拠だ。
患者はもしかしたら、10年を犠牲にして5年を獲得するのかもしれない。ともあれ、政治的権威に屈従することによってガンと戦わされることの苦痛は、すべて患者の身体に背負わされる。浅薄なCT検査から部位切除まで、これらの賭けの利益は、ほとんど医療集団によって独占される。しかし、ガンを敵であると見なしたのが医療集団だからこそ、患者は施療を受け入れたのである。ここで問題なのは、ガンを敵とするか味方とするかを、患者が決めることを許されていないということである。
人体実験は、強制的に行われるのを本質とする。そこに契約書はない。ガンを敵ではないとする見地に対する苛烈な異端審問こそが、人体実験の正当性を担保する。