コミュニティ、グループにおける政治力学
(これはメモ、思い出を言語化している物である。最前線には載せない。たぶん)
過去、私は複数の界隈や組織に所属していた。悪名高い集団の一人としてその前衛で人為的介在がないイデオロギー的集団意識に流されて闘ったこともある。過去を思い出すと私の行為の殆どは他党派戦略、政治的物言いをしないのであれば敵グループ解体運動の尖兵か旗振りであった。残念な事に私はそこまで政治的手腕に強い訳ではないから、その過程の中で多くの失敗を重ねる事となる。今日、私が一定の位置に安住出来ているのは私がそのような失敗をし、他者の失敗を目にしたり時には様々な手法を用いてコミュニティを破壊してきたからに他ならない。
先に述べてきた通り私は石崎翡翠個人としてではなく、組織人の名札を付けていた事のほうが遥かに多い。それ故に至った結論はどんなグループやコミュニティにおいても結局は政治である、と言う事だ。人が集まると共同体が構築される。するとやはりその中で声の大きい者は構成員が心底嫌がっても主導権を握ってしまう。政治を全く知らない子供達でも、政治をむしろ嫌ってさえいる人間が構成するグループでも、ただのおしゃべりコミュニティでも、結局は最も政治的行為の一つと言える主導権=既得権益争いをしている。人間は人間故に政治から逃げられないし、既得権益をめぐる政治的争いをする。本題に戻ろう。主導権を握る理由は複数ある。共同体におけるキーパーソンだったりとか、何かしらその人間しか持っていない能力があったり、利益が絡んでいたり、である。良くあるとすれば利益であろう。
しかし利益、と言えば読者諸君はさも曖昧な物を想像されるだろう。しかしここにおいても利益、とは現実の政党政治等における利益とあまり変わらない。
では先ずその利益について紐解いていこう
しかし先ずはグループ等の形式をここで簡潔にまとめておく。
1:イデオロギー的目的が確立されている集団
2:多様な個人が自然と集まっている集団
では利益に戻る。先に述べておくが1と2に共通する、する可能性があるのは金銭等物質化可能な利益だったり人間故の感情から来る利益である。後者は良くファシズム的手法によって利用されている。
最も純粋な1においては物質的豊かさとは無縁である可能性がある。1についてはここではあまり触れないでおく。
問題は2である。2は誰にとっても身近なコミュニティであり、故に詳しく触れなければならない。
既得権益
どの集団においても何かしらの利益が発生しているのは自明である。物質的利益だけではなく、安心感や虚栄心などの心の動きも立派な利益である。ここにおいて集団において主要な立ち位置を占める人間が一定の利益を享受できるのは明らかになった。幾ら彼らがこれを否定しようともそれは彼らが彼らのポストが本来利益を享受できるものと理解している事の証左であり、彼らが現実の有様を根拠に利益享受を否定するなら、それは彼らの無能に依る物であることに他ならない。重要ポストは既得権益であって、それを守る為に彼らは苦心せざるを得ない。実際の心情は違ってもポストにいる以上、と言うのは良くある事である。
物質的利益と無縁な集団の場合、その利益とはより曖昧な物が起点となる。正しく自己肯定感の為や自分を守る為、等既得権益側の感情が起点である。しかしそれも立派な政治事なので疎かにしてはならない。私も既得権益側であった事が多々あるのでわかるが、彼らは無意識的にせよ意識的にせよ、構成する人間を利用して自らの望む環境を構築しようとする。これを否定する偽善のメッキは外部の存在によって脆く剥がれ落ちる。外部との衝突がある、若しくは予見される時、既得権益側は全力を挙げて箱庭を守らんとする。これは当たり前である。そしてこれも当たり前であるが外部との構成員の接触において彼らはほころびを作らない為に構成員に対し何かしらの指導や方向性を伝える行為をしなくてはならない。これは構成員と既得権益側の利害が一致していると考えられるか、構成員が既得権益側から身を保護する為の自衛手段だったりする。この場合の自衛とは集団内において敵の仲間等とレッテルを貼られたり、既得権益側からの白い目が最終的に何に行き着くかを理解した上での行動だったりする。
殆どの既得権益側の者はここまで遠くまで見据えて考えてはいないが、以上の力学に基づいて動いている。私も私以外も同様であった。無論あまりにも無能な人間はそこで個人的感情を優先してしまい下手を打つ可能性はあるが。
恐怖
既得権益が恐れる事は何か。それは自らの安住の地が消え去ることだ。こればかりはどの人間も頷くだろう。無論、既得権益側にとっての安住の地であって構成員にとっての安住の地では必ずしも無いことは抑えてほしい。先ほども述べたが集団とは既得権益にとっての箱庭である。彼らは彼らの望む環境を、彼らの望む形と物質で留めておこうとする。これはもうそういう物である。故に彼らはその均衡が崩れる事を恐怖する。その恐怖から逃れる為なら彼らは思いもしない非人道的手法に訴えるだろう。(非人道的と言う言葉は大嫌いだがここでは使うこととする)
その均衡が崩れる理由は複数ある。
1:外部
2:代謝
である。1に関しては先ほど述べた通りだ。しかし2の代謝とは何か。ここにおける代謝とは既得権益側が既得権益側である為の要素が新しく来た人員や要素に奪われる事である。集団2においては集団の会話や雰囲気、大まかな方向を自然に決定付けていた彼らが新たな風によって主導権を奪われる事だ。これは要は集団から既得権益側の自身が必要とされなくなるという事の言い換えでしかない。故に代謝と表現できる。彼らとしてはこれは絶対に避けなければならない事態の一つだ。故に彼らの多くはそこでもがくしかない。ハラスメントや自身がまだ持っている主導権を駆使して自分の側に立たせようとする。残念な事に構成員は基本馬鹿なので何も考えず既得権益側が流す粗悪なプロパガンダに流されてしまう。そこで明確に既得権益側と反既得権益と言う二つの陣営が誕生し争う事になる。数々の界隈やグループ等の揉め事の多くはとどのつまりこれだ。無論この不毛とも言えそうな争いを避ける方法はある。既得権益側が先に身を引く、新しい風を迎えない、若しくは迎える者を選び、そして迎えて調教する。
一番平和的なのは身を引くだろう。自分が一人消えることで集団は安定し、衰退の心配はない。迎えない、は勧められない。それは結局マンネリ化しいる意味も無くなるし下手をすると人間関係などの問題で静かにガスが部屋に充満する可能性がある。調教の方針は当面の間権益は約束される。しかし集団の寿命を下げてしまうし、恐怖政治に他ならない。常時反対派との闘争のような事態になる。修羅の道だ。恐らく古参メンバーから離反者が出る。スターリンの気持ちが少し分かるだろう。
さいごに
以上乱雑に書いたが集団における政治力学である。自身の経験に基づき書かせてもらった。実体験も混ぜたかったがいかんせん言えない事が多いのと、時間がかかりすぎるので今回はこのようにした。もしかすると改良版をいつかあげるかもしれない。期待はしないように。
今回私が言えるのは結局集団になると政治が行われる事、それを理解しなければ既得権益になるのが難しかったり既得権益から搾取される羽目になると言う事である。今回文中では触れていないが恐怖で述べた手法も結局は構成員にとって心理的負担となる可能性がある。正直言って既得権益側からすれば構成員が何考えているかなんて原則どうでも良い。自分の箱庭の重要な構成因子として個人の感情があれば重んじる、結局人間は打算的な生き物である。故に人は自分を大事にしたいなら自分で考えて主体的に動くべきだ。受動的に誰それが言っているから、だとか雰囲気に流されてはならない。それこそがファシズムなのである。先ずは自分の軸を持ちしっかりと考えて行動せよ。まあ上手い奴はそういう風に誤認させるのだが。
参考文献:コミュニティ支配論(著:稲葉恒存)
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