スヤスヤ教の存在と支持者、その反対派、無関係を気取る全員に対する元恒心教徒兼現バクーニン主義者としての批判。
自分語り
私はバクーニン主義者である。現行の資本主義システムを否定し、ブルジョワ民主主義を否定し、スターリン主義を否定し、宗教の存在そのものを否定し、文化の破壊を叫び、総破壊を肯定し、見えざる独裁を肯定し、過渡期のプロレタリア独裁を肯定し、革命を無条件に肯定するのが私である。これは本来私のNoteを読む上での大前提である。私の文章はつまらんノンポリ的物言いをするなら「思想が強い」以外の何物でもないだろう。
例のあのNoteはそんな私の身内向けの陳腐な物であった。あれの主張とは階級闘争の軽視は許されないと言う事と、階級闘争と言う宗教なんかとは比にならない存在を愚弄し、それに無自覚にも居座り、自らの加害性を自覚していなかったり、それを理解しておきながら目を逸らす一部擁護者に対する批判であった。(ここでの加害性とは階級闘争に対する~とかだけではなく、反対者に対する煽りや終始一貫して被害者アピールの反論をした彼等への物である)あのNoteが最後になって急に語気が強くなったのは私が意図的にああいう構成にしたからである。先に述べたがあれは身内向けであって、そんな身内の彼らは私のおおよその立場も、言ってる事も知っているのである。あれは凡そこういう批判が有り得るよね、と言う結構冷静な見方をした文章と、主義者としての文章に分かれている。後者は擦られすぎな内容なので今更深く書くつもりが無かった。その代わり全体の把握として前者を書いているのである。しかしながら宗教を擁護するのはポリシーとして腹が立つので故に触れていない。中東情勢の事考えていないように思われます。これはいけない。程度である。ちなみにコメントで文化摩擦が触れられていないと言われたがそれは当たり前で、自らの利益が外国文化や移民に侵害されていると思うのは経済的要因に依るものが大きいからである。
恒心教について
で、私が恒心教徒であった事に移る。私は小学3年生かそこらで魯迅の故郷と出会い魯迅にはまる。その後当たり前に阿Q正伝を読み、政治的な方面へと興味が行き、結果即トロツキストとなる。阿Qの考えを理解するには結局政治は避けては通れない所でもあったし、曾祖父日共、祖母革マル、祖父べ兵連の家系に生まれた私にとって政治的な話等は身近な存在であったからだ。両親はノンポリだったが色々苦労人だった事もあり家ではアニメやドラマ、バラエティでは無くニュースが流れていた。そんな中イきり坊やだった私は恒心を知る。何で知ったかは覚えていないが、気づけばのめりこんでいた。中学受験へのストレスが恐らくのめり込んだ所以だった。ストレスを尊師と言う少なくともあの場では信仰の対象でもありただの殴られウサギであった存在にぶつくるのは結構スカッとした。しかし最初は開示されちゃうの怖いと震えていたが...…ぶつける私が情報セキュリティ系の本職と後になったのは間違えなくその影響だと思われる。現在は家庭教師になったが恒心で培った諸々は今でも普通に役に立っている。
そんな風に恒心をガス抜き手段として見ていた訳だが、教徒間での内ゲバや殉教を見るにつれて内部で政治的力学が少なからず働いている事、似非宗教とも言うべき恒心教に対して私含めて少なくない人が、自らの実存として恒心教を捉える傾向にあるのではないかと思うようになる。要は宗教等に対する信仰が存在していると言うことである。私が思うその理由とは逮捕される可能性があると言う共通認識があった教徒の中であった事と思われる。自らが殉職、要はキャリヤや生活、人間関係が終わる可能性と向き合い続けた結果お遊びと言えなくなっていたからだと思われる。ハッセに対する誹謗中傷や批判、凸行為への法的措置によって、事態を収拾するために尊師は降りて来られたのであるから、下手うちゃ生命除いてだが明確な危機に陥るのである。それは言うならばイデオロギーの土壌に非常に近しいのである。全てのイデオロギーとは自らに降り注ぐ災難やら逆境やらに対して答えとして提示される。宗教で言うならドイツ農民戦争等がいい例だと思う。あくまで徹底抗戦であった恒心教を今思い出すと私は恒心教とは立派な宗教であると思う。
宗教として
かつての同胞であるダクト飯氏のスヤスヤ教についてのNote を読んだ。(私はもう教徒ではないのでかつてのである)
と言う箇所は凡そ正しいが、しかし私にはここで政治活動をしている身としてハッキリ言っておかなければならない事がある。恒心教はその由来故に政治方面へは手を伸ばしていない。これはオウムの系譜としては不完全な箇所である。が、政治へ行ってしまうと絶対に第二のオウムになってしまうのでいけないと思う。宗教が政治に絡むと大変な事になるのでは無く、政治が宗教を狂わせるのだ。政治の本質とはカールシュミットの言う通りの物であって、宗教にとっては猛毒でしかない。しかしその猛毒を飲み、日本国打倒の為に闘ったかれらオウムは私からすれば宗教として余りにも正統であり、彼らは立派な革命勢力であり我々革命を志向する人間からすると同じステージに登って来た倒すべき強大な敵に該当する。無論私は宗教では無く科学を信仰するので宗教全般は徹底的に批判すべき存在であり、敵をどうしようが彼らがどう思おうが問題ないのである。
この箇所は凡そ正しいが自己の危機と言う重要な存在を付け加えていないのは非常に問題だと思う。確かに恒心教は①の部類ではあるのだが、恒心教全体がそれこそ既存宗教の様な歩みを今日まで歩んで来れたのは下手したら終わると言う物が根本にあると言う事を忘れてはならない。逆に言うのであれば立派な宗教になりたくば信者故の恐怖を感じ、それとどう向き合うかと言う苦行とも言える行為をしてしまえばいい。故にこの私の投稿である。この場合は批判者と言う外部の敵がより過激になり、彼等信者等が戦うしかない状況へとなるのが最も望ましい。これを順当に辿った場合、スヤスヤ教は完全な宗教として生まれ変わるだろう。今の信者にこれを考えている者は絶対にいないが。スヤスヤ教はその誕生理由からして大人しい性質なので私が望ましいと言っている事は現実的に考えてありえないが。
罪
私は所謂倫理と呼ばれる恣意的な物を否定する。あれはブルジョワに利用される概念でありあれに囚われる以上ブルジョワ道徳からの脱却は望めないのである。しかしながらそんな恣意的な物が唯一存在しない物が存在する。階級闘争である。抑圧者と被抑圧者、ブルジョワジーとプロレタリアート、神と人間。全て階級闘争と言うカテゴリーの中の物だ。階級闘争とは人の行動原理とその結果と言う事実しか存在しない。誰にもそれを捻じ曲げる事は出来ない。過去の累積である我々が否定して良い代物では無い。階級闘争の愚弄とは各々の利益や権利、正義の為に闘って苦難と対峙する事を選んだ、選んでいる全ての人間だけではなくそいつ含めた全人類と全文明、全歴史と人類から産まれた全概念に対する明確な敵対行為であり、自身の存在の直接的な否定である。オウムも9.11もエルサレムも立派な階級闘争のカテゴリーである。それを考えなしに単純化してネタ化してしまうのは絶対に間違っている。それは階級闘争の矮小化であるからだ。やるのであればイデオロギー闘争をして階級闘争の枠組へとその身を投じるべきである。私がスヤスヤ教に怒りを感じたのはその中途半端さのせいである。自己の加害性に向き合わないと言う私が最も嫌う事を創設者及び加害性を認めない信者はした。エルサレムを持ち出した時点でその拳は思い切って振り下ろすべきであり、途中でへなへなになる事は許されない。やっぱ無しで、が効く程人類の足跡は甘くない。(ちなみに私は原始共産制は存在しなかったと思っている。)
ちなみにであるが、この件に関して言及しつつも良くわかんないから、、、等と当たり障りのない事を選んだ人間、私のNoteを上辺しか読まず、私の背景情報を碌に調べもせず(分かり易く最後あたりで私が本性を現したにも関わらず!!)に共感したと言った奴も糾弾の対象である。彼らは日和見とファシズムの支持者の卵である。前者は日和見であって、立場表明も冷笑すらできないのであればそもそも口を開くな。後者は何も考えず情報を飲み込む人種なので危険である。それっぽい事をそれっぽく、自分にとって都合いい風に言われると彼らは尖兵になる。これは愚かだ。
同時に、スヤスヤ教の反対者にも自己の加害性から逃げているように思われる人物が多い。加害者たらんと誓い、徹底的に批判し戦うべし。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?