スヤスヤ教について
⚠️この記事の最期に私の立場などを説明したNoteのリンクを貼っている。必読である。絶対に読む事を推奨する。
ここ1週間において日本のX上で話題となっているスヤスヤ教という物に対してである。
みねるば氏の事はこれ以前から知ってはいたが、すやすや教なる物を作った事は過分にして知らなかった。勢いで言うとプチ寝そべり族の様なものと言っても問題は多分、恐らく無いだろう。教義(?)も基本的に別に良いとは思う。
しかし問題はそこでは無い。
聖地問題
現在では改名されてはいるが元々の聖地の名前は「ネルサレム」であった。確かに聖地っぽさ、を出すのであればネルサレムは良い案なのかもしれない。しかしながら考えても見よ。イスラエル、パレスチナで今一体何が起こっているか。明らか元ネタであるイェルサレムはその宗教的性質からこれまで血みどろの闘いが繰り広げられ、今日でもそれは繰り広げられている訳である。にも関わらずそれをネタにし、消費するのは一体どういう事か。この程度は理解出来るはずである。事パレスチナ問題に至ってはガザのパレスチナ人民は逃げ場の無い、天井の無い監獄たるガザに囚われ、生活環境の低下や空爆等の軍事侵攻の影響でマトモに眠れないと言うのに。あまつさえ問題となり火が燃え広がりつつある今日においてその愚を犯す事はあってはならない誤ちとしか言えない。
ミーム化した似非宗教ごっこに正当化され、布団に包まるのは癒しに感じるのだろう。しかしながらネルサレムとは何か。ここまで業の深い癒しがあってたまるか。そのエルサレムはパレスチナ側からの空爆もあったりすると言うのに。逼迫する中東情勢を前にそんな見識の無い事を何故言えてしまうのか。私は理解に苦しむ。実際に今行われている惨劇を無意識に娯楽化していると疑いたくなってしまう。
極めつけはみねるば氏のツイートである。
何が「最初は殺されちゃうかと思いましたが」か。余りにも宗教を軽んじている。「宗教上の理由で面倒事を〜」についても軽んじている事の証左でしかない。クリスチャンの方々を使うのもI have a black frend論法でしかなく、質の低い粗悪な免罪符程度の機能しか果たさないだろう。要は無意味である。宗教をあったら便利なバフ程度にしか考えていないのか?リスペクトしてるのかとかそんなのはどうでも良く、宗教への視点が明らかにおかしいのは何故なのか?実際の問題や惨劇をスクリーンやデバイスの向こう側に押しやり、あまつさえそれを利用してサーカス小屋を作る。こんな行為が許されていい物か。
このツイートについても同様である。叩かれる口実だと?火のないところに煙は立たないとはよく言ったもの。明らかに宗教を陳腐化したりイェルサレム問題、中東情勢等をネタ化しておいて良く言う。これを言ったクリスチャンはどういう心理でこれを口にしたのか。みねるば氏に気を使ってかどうか知らないが……。同時にこれをわざわざ載せるみねるば氏も問題だろう。わざわざこの一文を載せる必要性があったのか?たった一言「トラブルを起こさないため」や「トラブルの拡大を止めるため」とすれば良いでは無いか。「叩かれる口実……」は明らか不必要だ。
では何故みねるば氏はこれをわざわざ載せたのか。邪推になってしまうが私は彼の言動を見る限り批判している人間に対して「私は悪くない」という事を伝え、信者(?)には自らの社会性や倫理観をアピールする狙いがあるとしか思えない。
みねるば氏への批判はここまでにする。ここからは信者(?)全体、擁護者に対する批判である。
最大の問題
最大の問題は信者(以降擁護者)である。そもそもこの一連の流れは宗教をダシに面倒事から逃避しようという話であって、宗教的かと言われると全く違う。これはライフハック程度の話であってイデオロギー的に作り上げられた宗教とは全く異なる。スパモンはアンチ宗教の宗教というイデオロギー的枠組みの中で構築された物であってスヤスヤ教とは異なる。これは大前提である。
で、ここで問題とするのはスヤスヤ教が宗教でない故のその軽さである。スヤスヤ教はほぼネットミームとも言っても良い位の概念である。故にその発信元は問題にはされない。情報は人から人へ伝播し、ノリは増幅する。そこに発信者の思惑が内包されていようとも、一定の段階に到達したそれは発信者の介在する余地を少なくしてしまう。統一されない思惑がごちゃ混ぜになってしまっている現状を見るに、発信者による事態の収集は不可能と言えるし、当分の間スヤスヤ教に対する批判は続くだろう。緻密に設計されていないあれは情報の受け手解釈や利用の余地を多く残しており、故に広まりやすいが一度火がつこうものなら燃焼が止まらない可能性が高い。
ノリの話をしたが既に一部ではスンナ派やシーア派、タリバーン等をネタにしたスヤスヤ教分派等も創作されつつある。これは元の聖地の名称のせいだろう。
それとは別に擁護者の中からスヤスヤ教の「寛容さ」や「平和さ」と言った点を用い、他宗教や個人を非難、貶める投稿が散見されるのは憂慮すべき問題と考える。
あいおきしにる氏のこのツイートに対し、擁護者と思われる人々からのリプライ等が集まっている。それらを見ると上記で述べたスヤスヤ教の「平和さ」、「寛容さ」等を傘に冷笑するコメントが見られる。憂慮すべき問題の代表例だ。中には「病院行け」等のコメントも見られる。誹謗中傷とギリギリ認められそうではある。一体全体寛容とは何なのか。他人を冷笑する事は果たして寛容なのだろうか。私には「スヤスヤ教への批判を許さない」という無自覚なのか自覚的なのか知らないがそういった攻撃性しか感じられないのだが。
愚劣なダブルスタンダード
私は自らの加害性を自覚している人間に対しては基本的に怒りを覚えたとしても非難する事はしない。それは自らが相手に与えるであろう影響を加味した上でそれを行うという行為を尊敬しているからだ。ここでは日本であろうがどこであろうが、全てをネタにする人々を批判しない。それは彼らが加害性を自覚しているからだ。1人の人間として立派とすら思う。
しかしながら私がここで愚劣な、余りにも愚劣なこの世の屑共、ダブルスタンダードな偽善者共に対しては断固としてその存在にNOを突き付けようと思う。
こないだ問題になった鳥居での懸垂、原爆、地震、福島等……海外からネタにされるとキレ散らかす癖にエルサレムと言う正しく血みどろの地(なんなら現在進行形で悲劇が産まれている)をネタにし、あまつさえそれに対する批判に反論したり、耳と口を塞ぐあの愚劣なクソ野郎共。こいつらは絶対に許されてはならない。物事を捉える時に自らの立ち位置によってそれが変わるとは言えど、それに無自覚で、それに胡座をかいて何も背負わず娯楽に没頭するその姿。醜いという言葉しか浮かんで来ない。我々が一番非難するべきは彼等である。一番非難されるべきは彼等である。私は彼等の存在を許さないし許せない。
私は無意識に人民の血文字にその汚い排泄物をかける彼等を怨む。彼等のその日帝本国人仕草を許してはならない。安全地帯の人間が無意識に汚してはならない物を汚し、その癖自らの領域の物には怒る。この横暴を許してはならない。スヤスヤ教には様々な問題があるが、中でも最も問題なのはこういった人間の存在である。
追記:本来は身内用の文章だったが予想外にも拡散されてしまった。故にこの記事へのコメントに対する返信も兼ね、私の立場等を説明した。詳しくは以下へ。
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