短編「バンクシー」
「お世話になっております、バンクシーですが…」
電話口は陰湿ながらもどこかそわそわした様子だった。夕暮れの動物園、の園長室にかかってきた電話だ。
「いやあ、こちらこそ。いよいよ今日いらしてくださるのですね。我が動物園も来場者の減少で資金繰りに困っていたところですが、バンクシーの絵が園の前のシャッターに描かれたとなれば向こう一年、連日満員は間違いないでしょう」
「ええ、それがね…」
話を切り出そうとしたバンクシーに被せるように園長は畳み掛ける。
「それにしても、天下のバンクシーさんからこんなお話をいただけるなんて感激ですよ。何より意外だったのは、二週間も前から打ち合わせの電話をかけて来られたことです。私はてっきりテロのように無差別にやってらっしゃるものだと思ってましたからねえ」
「はは、私は自分の制作過程を誰の目にも映らないことを信条にやっていますから。いくら人目につかない夜といっても、巡回の警備員なんかに見つかったらまずい。そのために日程を確認していただいているのです。それで、大丈夫でしょうね、警備の方は」
ふつう警備が大丈夫といったら万全の警備員を配置することだが、バンクシーにとっては真逆だ。この日の夜には誰一人園内どころか周辺にも人影があってはいけない。
「もちろんですとも、私含め今日は皆帰宅させます。動物たちの番をする者がいないのは心配だが、ここが閉園になる方が問題だ。安心していらしてください。ああ、楽しみだなあ、これで経営はもう憂いなしですよ」
園長が窓外の真紅に照らす夕陽を眺めながらうきうき答えると、それとはまったく反対といっていい声色でもって、バンクシーは申しにくそうに切り出した。
「あのう、その費用のことでお願いがありまして、広告制作費として五百万ほどいただけないでしょうか」
それを聞いてすこしばかり慄いたが、園長はすぐに納得した。たしかに、経営芳しくない園にとって五百万はかなりの大金である。それでもこの広告効果で十分回収できるだろうし、なにより一流のアーティストが無料でうちに絵を描いてくれるなんて、そんなうまい話がどこにあるだろうか。むしろ、これまでこの費用のことを考えもしなかった自分が恥ずかしいほどだ。
「承知しました。で、振込先の口座はどこですか。ああ、一週間以内には絶対に支払いますから」
園長の口調にさらに熱がこもった。金が用意できないと見て契約破棄にでもなったら悔やみきれないチャンスだ。
「それが、直接現金で渡して欲しいのです。完全匿名でやっていますから、銀行の情報だって申し上げるわけにはいきません。今夜件のシャッターの前に紙袋で置いておいてくだされば、それで結構です」
バンクシーが答えると、園長は狼狽を悟られぬよう平然を装った。
「たしかにその通りですな。もちろん用意しておきますとも」
「どうも。それでは失礼します」
バンクシーの声からはなんとなく安堵が伝わってきたような気がした。
園長の懸念は資金の用意に向いた。どうやって。
正確にいえば、事業の口座から引き出せば捻出できる。しかしいまは夕方5時で、銀行は閉まっている。
「やむを得んか…」
部屋の奥の金庫のなか、先代の父がもしもの時にと残した純金を抱えて質屋に車を走らせた。
「誰もいないな、よし」
時刻深夜1時。到着したバンクシーはまず周囲を念入りに確認し、そのあとで紙袋に手を伸ばした。
持ってみて、おそらく五百万だろう。なんどもこの額で取引しているから、なんとなくわかるようになった。頭につけたライトで照らしてよく見たが、偽札でもなさそうだ。
それからバンクシーは黙々と仕事を始めた。まずは型で抜かれたシートをシャッターに貼り付ける。加工して持ってきたゴリラの絵が抜かれたものだ。そしてスプレーを噴射。スプレーアートといっても、その場で描くなんて馬鹿はいない。そんなんじゃ時間ばかりかかって人に見つかりやすくなるし、何より時給がさがる。この世はタイパなのだから。
シートの範囲を真っ黒に塗りつぶしたら、剥がして完成だ。その間なんと3分、これで五百万だから、時給換算すれば一億になる。
仕事が終われば早急に撤退する。何よりもスピード、効率が重要なのだ。
翌朝、バンクシーは薄暗い部屋のパソコンのAIソフトに向かっていた。
「絵、バンクシーっぽい、クジラ、入力っと」
こんなもんでいいだろう。大学で水彩を専攻した身からすると、この自動生成されたクジラは些か叙情に欠けるが、そんなものは、大衆そして商業にとっては石ころにも満たない瑣末な問題だ。
適当な水族館の電話番号を検索して、電話をかけた。
「突然すみません、バンクシーという者ですが…」