『坐禅と瞑想は全くの別物』
「坐禅に行きたい」。
きっかけは忘れたけれど、そう思い初めてから早1年。
ようやく実行に移せる日が来た。
場所はもっと近場の都内のお寺で良かったのだけれど、坐禅を組みたい人は独身という共通認識が禅寺界にあるのか、平日の夜がやたらと多く、私の今の生活環境で不可能だった。
そこで、日曜早朝に本格的坐禅が組めるという、鎌倉の報国寺に行くことに決めた。
「竹寺」という愛称を持つ、竹林で有名なあのお寺である。
さて、日記ではなく坐禅の感想を書きたいので、いきなり結論から。
坐禅はリラクゼーションではなく、精神修養というのがよく分かった。
心を見つめたり音を聞いたりするのではなく、ただ『ある』ものを流れのまま受け取る…って、雑念だらけの私には難しいどころか不可能に近かった。
最初は呼吸を意識してしまい、それは違うだろうと手放した。
すると、今度は心配事や不安なことがモリモリ出てきてしまって、とてもじゃないけど長時間耐えられそうになく、気付いたら「腰が痛い」「お坊さんの右足の爪が死んでる」と単発のしょーもないことがポコポコ心に浮かぶばかり。
かと言って止めるという意識が浮かばない程度には流れに乗っていたため、もうそれでいいだろう、とある意味開き直って終わった。
お坊さんが「叩くのは希望した時だけやりますが、かなり痛いのでやめたほうがいいです」と事前に止めて下さったにも関わらず、「どれくらい痛いのか知りたい」という好奇心が止められずお願いしてみた。
結果、息が止まるほど痛くて、「好奇心は身を滅ぼす」をリアルに体験した…ものの「経験しないという選択肢は無かったから、勇気持って希望してよかった」とも思ったので、私が坐禅を修めることは当分ないなと改めて自覚。
「細かい指示が多いし厳しいお寺です」といくつかのブログ記に書いてあったけれど、私はとても丁寧で親切なお寺さんだなと感じた。
とは言え、坐禅3回(正確には4回)を2時間半に渡って行う真剣にやってみたい人向けの内容ではあったので、ある程度の覚悟が求められるのは確か。
その意味では「厳しい」と言われるのは分かる気がする。
般若心経を初めて木魚に合わせて詠んだ感想は「思ったより詠むスピードが早い!」。
清少納言や紫式部が「声の良くない坊さんの読経はイマイチ」って言ってるのなるほど。
声の張りとか声質とか音の伸ばし方とか、これはプロの技だ。
雑念は全く払えず、達成感に満ち溢れた訳でもなく、でもやってみて良かった。
真面目にそう思う。
私は幼少期からカトリックで育ってきたので、仏教はかなり馴染みがない。
学校でのお祈りは朝昼帰り、ミサは毎週、ミサ中はずっと聖歌隊かオルガンか神父様のお説教で空間が埋められているのが普通。
無音の状態は存在しない。
だから、坐禅や特に読経はものすごく違和感があった。
「なんか隙間があるんですけど!?」みたいな恥ずかしさ。
でもそれが良い意味での緊張感にもなっていたのかもしれない。
今でも教会やミサに行くと緊張感より自宅に帰った安心感のようなものを感じて、私にとってキリスト教はリラクゼーション、仏教は修養なのだろうな。
(気分次第でまた追加・変更します)