レンガの中の未来(六)
(六)安寧
シノーは宿舎から徒歩で約二十キロの旅路に出かけた。午前中に出発すれば、夕方には着くだろう。今日も空は晴天である。シノーは歩いている間、様々な事を考えた。
イリンの元への徒歩小旅行はこれで四回目となるが、シノーにとってはこの歩いている間の思考整理が何気にお気に入りの時間であった。少しのお金を捻出すれば、馬車を使用して一気に目的地付近まで着く事は出来る。
だが、敢てその時間を確保する事で、特に将来の事を考えた。片道で四時間程、往復で約八時間だ。これだけあればじっくりと色々と考える事が出来る。今回特に考えた事は、意識という概念についてだ。睡眠について改めて思った。
先ずは目を瞑ってから意識を失いステージ、全く意識がないステージ、意識はあるっぽいがそれが現実なのか判断できない夢の中のステージ。そして、永遠の睡眠、死についてだ。
歩いている途中、野犬の死骸が目に留まった。死後数日経っているのだろうか、烏達につつかれたのか骨がむき出しになっている。あの犬の意識は今何処にあるのだろう。それと、生き物が生まれる前の意識は何処にあるのだろう。
そうこうするうちに、シノーはイリンが住むノルギー宅へ到着した。到着すると、玄関先では使用人が掃除をしていた。また、ノルギーの夫はその付近でマキ割りをしており、シノーと視線が合うと右手を挙げた。
シノーが軽く会釈すると、シノーの元に近づいてきた。
「おお、元気だったかい。」
「はい。今日は天気が良くて快適に来る事ができました。何時も弟がお世話になっております。」
「いやいてよく来てくれた。早く中に入って休むと良いよ。何日ここにいるんだい?」
「はい、明日には仕事場へ向かわなくていけません。仕事場からここまで徒歩で丸一日かかりましたので、明日には立ちませんと。休暇は三日なものですから。」
「そうかぁ、それは大変だな。イリンは中にいるよ。」
その男は、シノーを名前で呼ぶ事はなかった。いつも、兄さんと呼んだ。
「いつもイリンがお世話になっております。」
シノーは使用人に挨拶した。使用人は箒を動かす手を止め、笑顔となった。
「いえいえ、イリンは良い子にしていますよ」
「そうですか、それは安心しました。私の幼少期を想像していたものですが、やや心配しておりまして。」
「この位の年頃なんだから、少しくらいわんぱくなほうが良いんですよ。」
二人が会話しながら薄暗い家中に入ると、イリンがシノーをめがけて飛んできた。顔をシノーのお腹付近に埋め、シノーの匂いを確認しているようだった。それから顔を上げ、
「会いたかったよ!」と叫び声に近い声を上げた。
「ああ、兄さんもだよ。元気そうで安心したよ。学校は毎日楽しいのかい?」
「うん、毎日楽しいよ。」
今は行っていないけどと、イリンは言いかけた。しかし、黙っていた。
「そいつは良かった。兄さんは学校に行けなかったから、イリンが毎日学校にみんなと行っている所を頭に浮かべながらお仕事しているんだよ。」
「そうなのかぁ。お仕事ってどんな事しているんだっけ?」
「色々だよ。ほら、ここのお家はレンガで出来ているだろ?そのレンガを兄さんは作っているんだよ」
「へぇ、じゃあ兄さんがいなかったらこの家は建っていないんだね!」
「そうだね。兄さんが毎日働いているからこの家も建ってるとも言えるね。だから、イリンもこの家の言う事を良く聞いて良い子にしないとね。」
「うん、わかった」
ノルギーは二人を一瞥し、シノーが軽く会釈すると、それが終わらないうちに奥へ消えていった。
夕方、シノーはイリンと一緒に市場へ向かった。市場には沢山の人で溢れ、活気に満ちている。
各種野菜、生魚、絞めた鶏、それに強烈な香辛料の匂いが一気にシノーの臭覚を刺激した。シノーは予め二ビースをイリンに渡していた。
イリンはその二ビースで意気揚々とまるで自分が世界を征服してるかのごとく行進するように胸を張ってシノーの数歩前を歩いていた。えへん!とでも言っているようだった。
一軒の菓子店が目に留まった。その六歳の子の真開いたもみじのような手には、二ビース硬貨が揚揚と乗せられていた。
するとイリンはその菓子店の入り口で開口一番、「これ、ぼくの兄さんががんばって働いて稼いだお金なんだよ。
ぼくの兄さんはここから二十キロも離れた所でがんばって仕事しているんだよ。みんなが今住んでいる家のレンガを作っているんだよ。すごいでしょう。しかも、今日はぼくの誕生日でもないのに、久しぶりに帰ってきたからというんでこの二ビースでお菓子を買ってくれるんだよ、いいでしょう。」
と周囲に聞こえんばかりの声で店主に言い放った。イリンにとっては同世代の子供達にその光景を見せびらかせたかったようだが、その時周囲には子供はおらず大人ばかりであったが、そんな詳細な説明まで要らないのにと言わんばかりにと周囲の大人達は自然と笑みになり場が和んだ。
その長セリフをにこにこしながら聞いていた店主がイリンのそばに寄ってきた。
「お、そいつは景気がいいねぇ、坊や。じゃあ、早速お菓子を詰めようかね。」
菓子店の店主は菓子を手際よく袋詰めし、二ビース分まで秤に乗せた。そこにサービスの一握りの菓子を追加した。
「こいつはおまけだよ。」秤はわんわんと上下に揺れながら、秤の値は丁度二・一ビース分となった。
「今回はおじさんが奮発して二ビース分の所を二・一ビース分の詰め合わせにしといたよ。」
すると周囲から同時に二、三人が口を開いた。
「たった〇・一ビース分?」
それはそこのいた複数の大人達からであった。イリンは状況を理解していないようである。即座に店主は周囲の雰囲気を察した。
「い、いや、三ビーズ分の詰め合わせにしよう、今日は坊やの特別な日だからね。それで良いかね、坊や、いつもの一・五倍分だよ!」
と、店主は脇にある菓子を秤に載せながら言った。二・八ビーズ、二・九ビース、三ビース…。店主は秤の値三ビーズになると周囲の鋭い視線が分散するのを待つように、他の客の対応を急いだ。シノーは店主に頭を下げ、その場をイリンと後にした。
帰り道、二人で手をつないで帰ることになった。イリンの左手には先程のお菓子の袋が握られている。そして、それをぶんぶんとブランコのように上下させている。
先ほどの菓子店の件が余程嬉しかったのか、イリンは「イッテンコバイ、イッテンゴバイ」と連呼している。余程嬉しかったんだろう、一・五倍の意味も分かってないはずなのに、兄からもらった二ビースで世界征服出来たんだから。
先ほどからシノーは、イリンが左利きなのかと感じていた。そんな事も今更気づく事なのかと自分に言い、左下にあるイリンの頭を見ていた。そう言えばキャッチボールなんてしたことなかったな。
「今日は楽しかったね。」
「そうだね、明日も行きたいね。」
「うん、でもそれは難しいのかな、だって兄さんは明日にはここを発たないといけないんでしょ。」
「一日位いいんじゃないかと兄さんは思うようになったよ。そうすれば明日も市場に一緒に行けるじゃないか。ああ、お月様は丸いね。今日は満月だ。」
「お月様は丸いね。今日は丸いけど、明日には少し欠けるよね。」
「じゃあ何で毎日欠けるのかな?」
「何でだろうね」
「間違っていても良いんだよ、イリンの考えを聞かせておくれ。」
イリンは少し黙っていた
「笑わない?」
「当り前じゃないか、さあ言ってごらん」
「前から思っていたんだけどね。」
「うん」
「僕は三十個の形のちがう月が毎日代わる代わる順番にお空に出て来ると思うんだ。どんな順番かは知らないけど、じゃんけんで決めているのかな。だから、毎日お空には違う形のお月様が見えるんだ。曇っている日や雨の日はどうしているのかな、じゃんけんはお休みかな。」
「イリンはそんな事まで考えているのか、凄いな。」
「うん、でもお月様のお話はまた今度にしようよ。」
「そうかい、じゃあ何のお話をしようか?」
「レンガのお話をもっと聞かせて。兄さんが作っているレンガが世界中のお家に使われているお話。」
ノルギー宅へ戻ってからも、二人は寝床で話をつづけた。一つのベッドに二人で寝ることになった。甘えたい盛りである事は良く分かっている。
自分はイリンが六歳位の時母親と毎日寝ていた。温かった。それぞれの布団を船に見立てて、このお舟で何処の国に行けるかな、と言い合った。
「ああ、朝なんて来なければ良いのに。」
「…どうしてだい?」
「だって、兄さんは明日行ってしまうから。」
「…」
シノーはイリンの言葉を聞いて、同時に二つのことが頭を過った。一つはイリンの普段は見せない寂しがる本音。もう一つは、作業場での例の初老男の寝る事は死ぬ練習、という言葉であった。
しかし、間もなくしてその日の疲れからか、シノーはいつの間にか夢の中に入っていた。その数時間後、当り前のごとく太陽が東から昇り、翌朝を迎えた。
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