平賀源内その人
平賀源内の生涯やその代表作を解説。子供や子孫はいたの?
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平賀源内の生涯はどのようなものだったのでしょう?
まずは平賀源内の生涯を簡単にご紹介します。
平賀源内は1728年に讃岐国(今の香川県)に生まれました。11才の時にからくり掛け軸「おみき天神」を作っており、その才能を子供の頃から発揮していました。
21才で家督を継ぐと、24才の時には藩命によって長崎に留学しオランダ語、医学、油絵を学びました。ところが26才の時、妹に婿を取り平賀家の家督を譲り藩の役職を辞めてしまいます。
その後は量程器や磁針器を作製すると共に、28歳の頃には江戸に出て田村藍水(たむらたんすい)という人物から本草学(今の医学)を学んでいます。その後再び高松藩に仕えますが、1年余りで江戸に戻るために藩の職を辞めてしまいました。この時、高松藩から「仕官お構い」という処置を与えられたため、その後の幕臣への登用や他藩への仕官が不可能となってしまいました。
江戸へもどった源内は、34才のとき湯島で出品数が1,300種を超える「東都薬品会」を主催し、その翌年には出品物の図録である『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を刊行しています。作家活動も始めており、その代表作である『根南志具佐(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)』は大ヒット!明治期まで重版が繰り返される程の人気を集めました。
そして源内の快進撃はまだまだ続きます!
36才のときには秩父・中津川山中で石綿を発見し、燃えない布・火浣布を創り幕府に献上。その2年後には秩父・中津川で鉱山事業に着手し、40才で寒暖計を制作します。さらに42才のときには浄瑠璃『神霊矢口渡』が初演され、その後も源内による新作浄瑠璃は上演され続けました。
43才のときには陶芸の技法をまとめた『陶器工夫書』を記し、故郷の讃岐で自分の焼き物に関するノウハウを伝えたと言われています。また、この頃に油絵「西洋婦人図」を描いたと言われている他、48歳の時には有名なエレキテル(静電気発生機)の復元に成功しました!
まったくとどまる所を知らない源内の多彩な活躍ぶりなのですが、封建社会のこの時代においてはキワモノ扱いされて正当な評価を与えられず、源内自身も自分を認めてくれない世間に憤慨していました。
源内はだんだん人間不信に陥っていき、そして悲劇が起こります。
源内と自宅を訪れた大工の棟梁2人が酒を飲み明かした夜のこと、酔った源内は懐に入れておいた筈の大切な建築設計図が無くなったと思い、とっさに「盗まれた」と勘違いして、大工たちの仕業と思い込み一緒に飲んでいた2人を斬り殺してしまったのです!こうした殺人の罪で小伝馬町の牢獄に囚われた源内は、獄中で51年の生涯を閉じたと伝えられています。
そんな失意の中で他界した源内の葬儀を行い、その後、墓碑を建てるのに尽力したのは生涯の友である杉田玄白でした。
玄白は、平賀源内の墓碑に以下の言葉を刻み、源内を偲んだと言われ地ます。
「嗟 非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」
(常識にとらわれない源内よ。
常識を超えたことを好み、やることも常識を超えていた。
だからといって、どうして非常な最後まで迎えてしまうのか)
※参照:杉田玄白ってどんな人?年表や解体新書を小学生向けに解説!
日本のダ・ヴィンチ!?平賀源内の代表作を5つ解説
ところで、源内はどのような作品を作ったのでしょうか。
ここでは平賀源内の代表作を5つに絞って、簡単にご紹介します。
・静電気発生装置「エレキテル」
平賀源内の業績として一番知られているのがエレキテル(静電気発生装置)ですが、これは発明ではなく、入手したエレキテルを修復し、使用できるようにしたものです。源内は大商人や武家などに自信満々にエレキテルを披露し、実演を行いました。青い火花が散りビリビリする謎の箱は大評判となりますが、「見世物」として話題にはなったものの、それ以上の業績を作ることは出来ませんでした。
・燃えない布「火浣布」
秩父・中津川山中で偶然に石綿(アスベスト)を発見した源内は、石綿を混ぜて織った燃えない布「火浣布」を作り上げ、試作品を幕府に献上しました。火浣布の産業化を目論んでいた源内でしたが、量産するのは技術的にも難しく実用化することは出来ませんでした。
・日本初の万歩計「量歩計」
源内が28才のときに製作したと言われているのが万歩計です。ヨーロッパ製の歩数計を手に入れた源内は、改良を加えて「量歩計」という万歩計の元祖のようなものを発明しました。この他、寒暖計や磁針器なども製作していて、天才ぶりを発揮しています。
・日本初の洋風画「西洋婦人図」
陶芸にも才能を発揮した源内ですが、さらに油絵も描いています。この『西洋婦人図』は日本における西洋画の先駆的作品といわれ、好奇心旺盛で何事も理解の早い源内は、長崎留学中に西洋画の技法を独学で身につけたと言われています。
・歌舞伎の演目にもなった『神霊矢口渡』
また、源内は文才も発揮しており、当時の通俗小説を指す「戯作」の開祖とまで言われています。35才のときに「風来山人」のペンネームで書いた『根南志具佐(ねなしぐさ)』や『風流志道軒傳』といった作品はよく知られています。
また、「福内喜外」のペンネームで書いた浄瑠璃の脚本『神霊矢口渡』も大人気となりました。この作品は歌舞伎の演目にもなり現在でも上演されています。
この他にも、竹とんぼや焼き物作った事で知られる源内は「日本のダ・ヴィンチ」と称される事があります。しかし封建社会だった江戸時代では、これらの発明を事業化したり、創作で収入を得るのはなかなか困難なことだったようです。
平賀源内の子供や子孫はいるの?
ところで、平賀源内には子供や子孫はいるのでしょうか?源内の素晴らしい才能を受け継いだ子供や子孫には、さぞ素晴らしい人材がいるはず?と興味の湧くところですよね。
ところが源内は生涯独身で、子供も持ちませんでした。これだけ目まぐるしく発明や創作や、様々な活動に飛び回っていた日常の中で出会いや恋愛するヒマが無かったのかというとそうではなく、実は男色家だったと言われています。
源内は生涯、結婚はせず歌舞伎役者など美形の青年を愛したと伝えられていて、中でも歌舞伎の女形・二代目瀬川菊之丞との仲は有名だったそうです。また、その文才を発揮して男色について解説した『江戸男色細見菊の園』『男色評判記男色品定』といった作品も書いています。
ちなみに平賀家は、源内の妹が婿養子を取る形で存続したようです。この家系は今でも存続しており、現在は7代目の平賀一善さんが当主を務めており、源内の出身地である香川県で開催されているイベントに度々出席されているようです。
この記事のまとめ
平賀源内の生涯やその代表作、子供や子孫の有無についてご紹介しました。
本草学、地質学、蘭学、戯作、浄瑠、俳人、蘭画家、発明家といった様々な顔がある源内ですが、生前は決して高い評価を得られた訳ではなく、その生涯は意外に不遇なものでした。男色家で生涯結婚する事はなかった源内ですが、その妹の血筋が今でも続いています。
もし平賀源内が現代に生きていたら、さぞかしカリスマ性のある事業家、アーティストとして活躍したのか、それとも同じように変人扱いされただけだったのか…
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