平賀源内

戒名は智見霊雄。墓所は浅草橋場(現東京都台東区橋場2-22-2)にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。また、その背後には源内に仕えた従僕である福助の墓がある。友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てた。この墓の敷地は1931年(昭和6年)に松平頼寿により築地塀が整備され、1943年(昭和18年)に国の史跡に指定された[8]

平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか

また故郷のさぬき市志度の自性院(平賀氏菩提寺)にも源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、義兄である源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたと伝えられる墓が存在する。

一般には橋場の墓が葬墓で志度の墓が参墓(いわゆる両墓制)といわれているが、上記経歴にて前述したように源内の最期や遺体の処され方については諸説ある(上述した高松松平家庇護説に則った場合は葬墓と参墓の関係が逆転する)。

平賀源内墓、さぬき市志度の自性院。


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