平賀源内と江戸時代の物産会
本草学者という人々
江戸時代の物産会
本草学というのは天然にあるものの中で、人間に効能のあるもの、医薬的な効果があるものを追求する学問だが、その多くは薬草であったため本草という名で括られる。効能に限定せずに産物を追求する場合は博物学であり、また上古の文献、例えば中国の「詩経」や日本の「万葉集」などに出てくる植物を同定しようとする研究は名物学と呼ばれた。
江戸の宝暦年間ころなると、こうした本草学者(博物学者、名物学者も含む)は、文献渉猟より実際のものを見ようという意欲が強くなり、ものを持ち寄って展覧する物産会が各地で繰り返し行われるようになった。
その始まりは、津島恒之進(如蘭)による宝暦初年の本草会であったと従来から言われてきたが、これは本草書の会読をするだけの集まりだったという説もある。
実際に物を集めて開いた物産会として確実なのは、宝暦七年、田村登(藍水)が弟子の平賀源内の提唱を受けて江戸湯島で開いた薬草会が最初だと言われている。
江戸時代の本草学の流れは、江戸を中心とする実地派と京都を中心とする文献派の二つがあった。その両者が宝暦以降毎年のように物産会、本草会、薬品会を開いた。
しかし、この両者は決して対立していたわけではなく、ある意味では互いに呼応しており、また緊密な連携も取れていた。
この両者は研究のアプローチが違うと言っても、その研究を支持していたのは将軍吉宗であり、吉宗の本草奨励政策であった。本草学は国内資源を有効に活用し、生薬類や原材料の輸入による財政負担を軽減させることが出来るので、その奨励は重要な殖産政策であると同時に差し迫った財政政策でもあった。
加賀藩の稲生若水は京都で「庶物類簒」の編纂にあたっていたが、その死後吉宗は門人による編纂継続を加賀藩主に命じ、最終的には若水の弟子丹羽正伯を総裁として、内山覚仲を加え、幕府の事業として完成させた。ここでは幕府の指示という形で全国の各藩に産物の提供をさせたために、従来の個人ベースの収集活動よりは格段にスケールが大きなものになり充実した内容になった。
吉宗は一方で江戸でも駒場に薬園を開き、紀州から連れてきた庭師植村政勝に担当させたが、さらに植村の師阿部将翁を採薬使にとりたてて全国の薬草を採集させた。江戸湯島で最初に薬草会を開いた田村藍水は、この実地探査の専門家阿部将翁の弟子である。
京都では、稲生若水門の重鎮松岡恕庵が、本草学を名物学、物産学として発展させたので、享保六年(1721)には薬品鑑定のため江戸に呼ばれたこともあった。関西で最初に開かれた物産会は宝暦十年(1760)に恕庵の弟子戸田旭山が大阪浄安寺で開いた薬物会であるが、その記録である『文会録』には、出品者として田村藍水、後藤梨春、松田長元、平賀源内、木村蒹葭堂らが記載されている。江戸からの出品協力者が多くいたのである。
江戸の薬草会は宝暦九年から平賀源内によりさらに規模を拡大して開催された。全国に「諸国産物取次所」二十五箇所を決めて体系だてて出品物を集めるやり方をとった。また、「東都薬品会趣意書」という引札を全国に配布したが、これには当時最もネットワークが完備していた俳諧飛脚を利用した。この時には逆に大阪の戸田旭山ら関西側が協力している。源内は宝暦十三年にこれまで江戸で開かれた五回の物産会で出品された主なもの三百六十種をまとめた「物類品隲」全六巻を刊行した。
ところで、早稲田大学図書館は古典籍の収蔵でも知られているが、その主なものは「古典籍総合データベース」として公開されているので研究者にとっては非常に参考になる。平賀源内が全国に配布した「東都薬品会趣意書」の引札も現物画像で見ることが出来、「大日本神区奥域山川秀麗・・」で始まる本文や、会主・平賀源内ほか世話人、取次所の場所氏名まで確認できる。さらに興味深いのは旧蔵者大槻文彦の蔵印があることで、集古会名誉会員の大槻文彦が古典籍の熱心な蒐集家であったことが実感できる。
平賀源内以後の江戸では、多紀元孝が開いた医学塾躋寿館が中心となって物産会を開いた。ここには蘭学系の本草学者も加わり、「解体新書」の訳者だった桐山正哲や中川淳庵、最初の内科訳書「西説内科撰要」の訳者宇田川玄随などがこの躋寿館薬品会という物産会を主宰した。早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」では「西説内科撰要」とともに、「躋寿館葯品会略目」も公開されている。アクセスして閲覧すれば、この薬品会の出品物が如何なるものであったかを伺い知ることが出来る。多紀元孝は将軍家奥医師であり、その躋寿館は寛政三年(1791)に幕府直轄の医学館となる。いわば官主催の薬品会となった。医学館薬品会が長く継続する基盤を整えるのには、幕府が京都から江戸に招いた小野蘭山の力が大きかった。それ以後ほぼ毎年物産会は継続的に開催された。
京都では小野蘭山の弟子山本世孺(亡羊)が文化五年(1808)以降、継続的に物産会を開いた。大阪の岩永文楨は、山本亡羊の弟子で、その影響下に大阪で物産会を開催したが、その余業として人形会も開いたのである。
医業に従事していた岩永文楨が何故人形にまで手を拡げたのかを不思議に思うかもしれないが、もともと博物学には産物に加えて、それがどう使われていたか、どのような習俗のもとに利用されたかを調べることも含まれていた。そもそも博物という名称は晋の張華の「博物誌」(三世紀)からきたと言われているが、博く物を知るということが原義であり、その内容は産物から地理、服飾器物にまで及んでいた。玩具などを対象とすることも必ずしも不思議なことではなかった。
尾張の博物学者として後でも触れる吉田高憲(雀巣庵)は本草学者であり、昆虫学者でもあったが、天保八年より毎年一月二十五日と日を決めて博物会を開催した。この時の持ち寄り品は、主として古器物、古瓦、古貨幣、藩札などであったというから、「集古会」に殆ど近い活動であったろう。雀巣庵博物会は吉田高憲が亡くなる安政六年まで二十年以上にわたって続けられた。
物産会の広がりは、当初から和本草を超えて蘭学派にも及んでいた。長崎の通詞だった本木良意や吉雄耕牛、志筑忠雄は同時に優れた蘭医であったり本草学者、天文学者、科学者であった。そうした通詞に学んだ人の中から物産会に加わる人も出てくる。例えば田村藍水の弟子中川淳庵は、宝暦七年の物産会の出品者であり、宝暦十三年には平賀源内発刊の『物類品隲』の校閲も行って物産会に深く関わったが、吉雄耕牛(幸右衛門)に蘭学を学び、杉田玄白・前野良沢とともに「解体新書」の翻訳にも加わった。杉田玄白は中川淳庵とともに小浜藩医だったこともあり、田村藍水の物産会にも興味を持っていた。平賀源内と杉田玄白の交流も良く知られている。また玄白の婿養子となった杉田伯元は小野蘭山に本草学を学んだともいわれる。
長崎には元禄のケンペル(Kaempfer)、安永のチュンベリー(Thunberg)、文政のシーボルト(Siebold)など、博物学のBackgroundをもつ学者が次々来日した。特にリンネ(Linnaeus)の植物分類学を学んでいたチュンベリーに日本の本草学者は大いに刺激を受けたであろう。桂川甫周、中川淳庵など多くの医師、植物学者が江戸に来たチュンベリーと会っている。チュンベリー自身もまた日本の動植物には強い関心があった。チュンベリーは本草学の和書を数多く蒐集して持ち帰り、帰国後ライプチッヒで詳細な「日本植物誌」を刊行した。
シーボルトは江戸に向かう途上、熱田で小野蘭山の弟子水谷豊文に会い、豊文から自製の植物標本類を贈られた。
とくに尾張の水谷豊文とその弟子たちは、博物への関心が強く、嘗百社というグループを作り本草会を繰り返し開いた。そのメンバーである大河内存眞、吉田高憲(雀巣庵)、大窪昌章、伊藤圭介はいずれも動物や植物に詳しく、存真の書「蟲類写集」はシーボルトに贈られ蘭訳されている。大窪昌章の「蛛類図説」も蘭訳され、吉田高憲が著作した「蟲譜」の図版は極めて科学的に描かれていると評価が高い。彼らはまた西洋の図版に倣った植物の拓本である印葉図にも巧みで、この技法は尾張本草学の書に多くとりいれられた。またメンバーで本草会の中心人物の一人石黒済庵は尾張で最初に腑分けを行った医師である。
伊藤圭介は長崎で吉雄耕牛の跡を継いだ権之助からオランダ語を学び、鳴滝塾でシーボルトの弟子となった。シーボルトは来日の際、チュンベリーの「日本植物誌」を携えており、それを弟子になった伊藤圭介に与えた。伊藤圭介はそれに基づいて「秦西本草名疏」を書き、リンネの分類体系を日本に紹介した。
本草学と蘭学とは互いに補完関係にあり、そのネットワークは必然的であった。
伊藤圭介は長命で明治に入って日本で最初の理学博士になり初代の学士院会員となった。その弟子田中芳男は慶応三年(1867年)パリ万国博覧会に昆虫標本(蝶)を持って出張、明治に入ると動物園・植物園を構想し、明治三年に小規模博覧会(物産展)を九段の靖国神社の場所(招魂社)で開催した。明治五年のウィーン万国博覧会に再び参加。明治八年に上野の博物館、動物園設立に尽力した。いわゆる江戸期の物産会から、明治期の博覧会、博物館への橋渡しをしたことになる。
長崎の鳴滝塾では蘭医伊東玄朴も弟子としてシーボルトに学んでおり、やがて玄朴は江戸に「お玉が池種痘所」(後の東京大学医学部)を設立する。これに林洞海、坪井信良が参加する。坪井信良の岳父坪井信道は宇田川玄真の蘭学の弟子であった。
坪井信良の子息が集古会の設立者の坪井正五郎であり、林洞海の孫が集古会の事実上の運営者であった林若樹である。坪井信道、宇田川玄真に学んだ緒方洪庵の適塾では集古会に参加する蘭科医柏原学而が学んでいる。
本来物産会は、実物を見たいという動機から生まれており、必然的に師弟関係・同門・同好会を超えた学際的交流にならざるを得ない。価値のあるものを出品してくれる人に対して、分け隔てをする理由はないのである。
全国にあったいくつかの博物学のサークルが、物産会・薬品会・本草会の開催にあわせて結びついたというのが非常に大きな特徴であって、この結びつきを通して極めて知的ポテンシャルの高い活動が展開された。このネットワークの知的基盤が明治に入って西欧文化の吸収をさらに強力に進める原動力になったであろうし、一方では趣味人たちが課題を決めて持ち寄る集古会の展覧にも引き継がれるのである。
明治の集古会においても、古物・古習俗を持ち寄り展覧するという一点の共通性で、いくつもの異なったサークルが一堂に会した。それは異種のもの、多様なものの交流であり、明治の知的活動を推進する特徴的な形態でもあったろう。それ故、集古会は、藩閥も貴賤もこえた魅力ある集まりだったのである。
本草学というのは天然にあるものの中で、人間に効能のあるもの、医薬的な効果があるものを追求する学問だが、その多くは薬草であったため本草という名で括られる。効能に限定せずに産物を追求する場合は博物学であり、また上古の文献、例えば中国の「詩経」や日本の「万葉集」などに出てくる植物を同定しようとする研究は名物学と呼ばれた。
江戸の宝暦年間ころなると、こうした本草学者(博物学者、名物学者も含む)は、文献渉猟より実際のものを見ようという意欲が強くなり、ものを持ち寄って展覧する物産会が各地で繰り返し行われるようになった。
その始まりは、津島恒之進(如蘭)による宝暦初年の本草会であったと従来から言われてきたが、これは本草書の会読をするだけの集まりだったという説もある。
実際に物を集めて開いた物産会として確実なのは、宝暦七年、田村登(藍水)が弟子の平賀源内の提唱を受けて江戸湯島で開いた薬草会が最初だと言われている。
江戸時代の本草学の流れは、江戸を中心とする実地派と京都を中心とする文献派の二つがあった。その両者が宝暦以降毎年のように物産会、本草会、薬品会を開いた。
しかし、この両者は決して対立していたわけではなく、ある意味では互いに呼応しており、また緊密な連携も取れていた。
この両者は研究のアプローチが違うと言っても、その研究を支持していたのは将軍吉宗であり、吉宗の本草奨励政策であった。本草学は国内資源を有効に活用し、生薬類や原材料の輸入による財政負担を軽減させることが出来るので、その奨励は重要な殖産政策であると同時に差し迫った財政政策でもあった。
江戸の薬草会は宝暦九年から平賀源内によりさらに規模を拡大して開催された。全国に「諸国産物取次所」二十五箇所を決めて体系だてて出品物を集めるやり方をとった。また、「東都薬品会趣意書」という引札を全国に配布したが、これには当時最もネットワークが完備していた俳諧飛脚を利用した。この時には逆に大阪の戸田旭山ら関西側が協力している。源内は宝暦十三年にこれまで江戸で開かれた五回の物産会で出品された主なもの三百六十種をまとめた「物類品隲」全六巻を刊行した。
ところで、早稲田大学図書館は古典籍の収蔵でも知られているが、その主なものは「古典籍総合データベース」として公開されているので研究者にとっては非常に参考になる。平賀源内が全国に配布した「東都薬品会趣意書」の引札も現物画像で見ることが出来、「大日本神区奥域山川秀麗・・」で始まる本文や、会主・平賀源内ほか世話人、取次所の場所氏名まで確認できる。さらに興味深いのは旧蔵者大槻文彦の蔵印があることで、集古会名誉会員の大槻文彦が古典籍の熱心な蒐集家であったことが実感できる。
平賀源内以後の江戸では、多紀元孝が開いた医学塾躋寿館が中心となって物産会を開いた。ここには蘭学系の本草学者も加わり、「解体新書」の訳者だった桐山正哲や中川淳庵、最初の内科訳書「西説内科撰要」の訳者宇田川玄随などがこの躋寿館薬品会という物産会を主宰した。早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」では「西説内科撰要」とともに、「躋寿館葯品会略目」も公開されている。アクセスして閲覧すれば、この薬品会の出品物が如何なるものであったかを伺い知ることが出来る。多紀元孝は将軍家奥医師であり、その躋寿館は寛政三年(1791)に幕府直轄の医学館となる。いわば官主催の薬品会となった。医学館薬品会が長く継続する基盤を整えるのには、幕府が京都から江戸に招いた小野蘭山の力が大きかった。それ以後ほぼ毎年物産会は継続的に開催された。
京都では小野蘭山の弟子山本世孺(亡羊)が文化五年(1808)以降、継続的に物産会を開いた。大阪の岩永文楨は、山本亡羊の弟子で、その影響下に大阪で物産会を開催したが、その余業として人形会も開いたのである。
医業に従事していた岩永文楨が何故人形にまで手を拡げたのかを不思議に思うかもしれないが、もともと博物学には産物に加えて、それがどう使われていたか、どのような習俗のもとに利用されたかを調べることも含まれていた。そもそも博物という名称は晋の張華の「博物誌」(三世紀)からきたと言われているが、博く物を知るということが原義であり、その内容は産物から地理、服飾器物にまで及んでいた。玩具などを対象とすることも必ずしも不思議なことではなかった。
尾張の博物学者として後でも触れる吉田高憲(雀巣庵)は本草学者であり、昆虫学者でもあったが、天保八年より毎年一月二十五日と日を決めて博物会を開催した。この時の持ち寄り品は、主として古器物、古瓦、古貨幣、藩札などであったというから、「集古会」に殆ど近い活動であったろう。雀巣庵博物会は吉田高憲が亡くなる安政六年まで二十年以上にわたって続けられた。
物産会の広がりは、当初から和本草を超えて蘭学派にも及んでいた。長崎の通詞だった本木良意や吉雄耕牛、志筑忠雄は同時に優れた蘭医であったり本草学者、天文学者、科学者であった。そうした通詞に学んだ人の中から物産会に加わる人も出てくる。例えば田村藍水の弟子中川淳庵は、宝暦七年の物産会の出品者であり、宝暦十三年には平賀源内発刊の『物類品隲』の校閲も行って物産会に深く関わったが、吉雄耕牛(幸右衛門)に蘭学を学び、杉田玄白・前野良沢とともに「解体新書」の翻訳にも加わった。杉田玄白は中川淳庵とともに小浜藩医だったこともあり、田村藍水の物産会にも興味を持っていた。平賀源内と杉田玄白の交流も良く知られている。また玄白の婿養子となった杉田伯元は小野蘭山に本草学を学んだともいわれる。
長崎には元禄のケンペル(Kaempfer)、安永のチュンベリー(Thunberg)、文政のシーボルト(Siebold)など、博物学のBackgroundをもつ学者が次々来日した。特にリンネ(Linnaeus)の植物分類学を学んでいたチュンベリーに日本の本草学者は大いに刺激を受けたであろう。桂川甫周、中川淳庵など多くの医師、植物学者が江戸に来たチュンベリーと会っている。チュンベリー自身もまた日本の動植物には強い関心があった。チュンベリーは本草学の和書を数多く蒐集して持ち帰り、帰国後ライプチッヒで詳細な「日本植物誌」を刊行した。
シーボルトは江戸に向かう途上、熱田で小野蘭山の弟子水谷豊文に会い、豊文から自製の植物標本類を贈られた。
とくに尾張の水谷豊文とその弟子たちは、博物への関心が強く、嘗百社というグループを作り本草会を繰り返し開いた。そのメンバーである大河内存眞、吉田高憲(雀巣庵)、大窪昌章、伊藤圭介はいずれも動物や植物に詳しく、存真の書「蟲類写集」はシーボルトに贈られ蘭訳されている。大窪昌章の「蛛類図説」も蘭訳され、吉田高憲が著作した「蟲譜」の図版は極めて科学的に描かれていると評価が高い。彼らはまた西洋の図版に倣った植物の拓本である印葉図にも巧みで、この技法は尾張本草学の書に多くとりいれられた。またメンバーで本草会の中心人物の一人石黒済庵は尾張で最初に腑分けを行った医師である。
伊藤圭介は長崎で吉雄耕牛の跡を継いだ権之助からオランダ語を学び、鳴滝塾でシーボルトの弟子となった。シーボルトは来日の際、チュンベリーの「日本植物誌」を携えており、それを弟子になった伊藤圭介に与えた。伊藤圭介はそれに基づいて「秦西本草名疏」を書き、リンネの分類体系を日本に紹介した。
本草学と蘭学とは互いに補完関係にあり、そのネットワークは必然的であった。
伊藤圭介は長命で明治に入って日本で最初の理学博士になり初代の学士院会員となった。その弟子田中芳男は慶応三年(1867年)パリ万国博覧会に昆虫標本(蝶)を持って出張、明治に入ると動物園・植物園を構想し、明治三年に小規模博覧会(物産展)を九段の靖国神社の場所(招魂社)で開催した。明治五年のウィーン万国博覧会に再び参加。明治八年に上野の博物館、動物園設立に尽力した。いわゆる江戸期の物産会から、明治期の博覧会、博物館への橋渡しをしたことになる。
長崎の鳴滝塾では蘭医伊東玄朴も弟子としてシーボルトに学んでおり、やがて玄朴は江戸に「お玉が池種痘所」(後の東京大学医学部)を設立する。これに林洞海、坪井信良が参加する。坪井信良の岳父坪井信道は宇田川玄真の蘭学の弟子であった。
坪井信良の子息が集古会の設立者の坪井正五郎であり、林洞海の孫が集古会の事実上の運営者であった林若樹である。坪井信道、宇田川玄真に学んだ緒方洪庵の適塾では集古会に参加する蘭科医柏原学而が学んでいる。
本来物産会は、実物を見たいという動機から生まれており、必然的に師弟関係・同門・同好会を超えた学際的交流にならざるを得ない。価値のあるものを出品してくれる人に対して、分け隔てをする理由はないのである。
全国にあったいくつかの博物学のサークルが、物産会・薬品会・本草会の開催にあわせて結びついたというのが非常に大きな特徴であって、この結びつきを通して極めて知的ポテンシャルの高い活動が展開された。このネットワークの知的基盤が明治に入って西欧文化の吸収をさらに強力に進める原動力になったであろうし、一方では趣味人たちが課題を決めて持ち寄る集古会の展覧にも引き継がれるのである。
明治の集古会においても、古物・古習俗を持ち寄り展覧するという一点の共通性で、いくつもの異なったサークルが一堂に会した。それは異種のもの、多様なものの交流であり、明治の知的活動を推進する特徴的な形態でもあったろう。それ故、集古会は、藩閥も貴賤もこえた魅力ある集まりだったのである。
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物産会年表
江戸京 ・ 大阪 ・ 名古屋宝暦11751津島如蘭本草会 (読書会だったという説あり)宝暦21752宝暦31753宝暦41754宝暦51755宝暦61756宝暦71757田村藍水薬草会 湯島宝暦81758田村藍水薬草会 神田宝暦91759平賀源内薬草会 湯島
淨光寺薬品会宝暦101760薬品会 松田長元 於市ヶ谷 戸田旭山薬物会 淨安寺宝暦111761豊田養慶薬品会 東山双林寺 (解説書:「赭鞭余録」)宝暦121762東都薬品会 湯島 平賀源内 戸田旭山闘薬会 淨安寺宝暦131763鑑古堂物産会 円山芙蓉楼 (順照寺僧弁が会主)明和11764平賀源内薬品会 湯島 戸田旭山闘薬会 淨安寺
鑑古堂物産会 東山也阿弥明和21765(多紀元孝が医学塾躋寿館を開く)見道斎物産会 (京の医科伊良子光顕)
鑑古堂物産会 東山也阿弥明和31766薬物会 田村西湖・中川淳庵 鑑古堂物産会 東山也阿弥
(木村蒹葭堂が品評執事を務める)
見道斎物産会 (京の医科伊良子光顕)明和41767明和51768明和61769明和71770明和81771安永11772安永21773安永31774安永41775 産物会安永51776安永61777安永71778安永81779安永91780天明11781薬品会 於躋寿館
(桐山正哲会主・出品人105人,出品点数900点)天明21782薬品会 於躋寿館天明31783薬品会 於躋寿館
(田村西湖・中川淳庵・宇田川玄随)医学院本草研究会天明41784薬品会 於田村西湖宅天明51785薬品会 於躋寿館天明61786薬品会 於躋寿館天明71787薬品会 於躋寿館天明81788薬品会 於躋寿館寛政11789薬品会 於躋寿館寛政21790寛政31791(幕医多紀氏の医学塾躋寿館を幕府医学館とする)寛政41792医学館薬品会寛政51793医学館薬品会寛政61794寛政71795医学館薬品会寛政81796医学館薬品会寛政91797医学館薬品会寛政101798寛政111799医学館薬品会 (小野蘭山による再興)詩経草木多職会寛政121800享和11801医学館薬品会享和21802医学館薬品会享和31803医学館薬品会文化11804医学館薬品会文化21805医学館薬品会
文化31806文化41807文化51808双林寺文阿弥物産会(山本亡羊)
(小野蘭山の孫職孝来京歓迎の会)文化61809医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会 於円山芙蓉楼文化71810山本(亡羊)読書室物産会
百々俊道物産会文化81811山本(亡羊)読書室物産会文化91812医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会文化101813医学館薬品会水野皓山(小野蘭山の弟子)物産会
百々俊道(小野蘭山の弟子)物産会
薬品会(修養堂・伊藤圭介宅)
本草会(生済堂・大河内存眞宅) 文化111814医学館薬品会
詩経草木会(小野職孝 於衆芳拳)水野皓山物産会 円山多蔵庵文化121815医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会 於因幡薬師
水野皓山物産会 於養寿庵
文化131816医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会文化141817医学館薬品会文政11818医学館薬品会百々俊道物産会文政21819医学館薬品会水野皓山物産会 於養寿庵文政31820医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会文政41821文政51822医学館薬品会文政61823医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会文政71824山本(亡羊)読書室物産会文政81825山本(亡羊)読書室物産会文政91826山本(亡羊)読書室物産会文政101827医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
本草会 伊藤圭介 於名古屋・修養堂
本草会 大河内存眞 於名古屋・生成堂文政111828山本(亡羊)読書室物産会
(水谷豊文が嘗百社を結成)文政121829山本(亡羊)読書室物産会天保11830天保21831山本(亡羊)読書室物産会
内藤朱蕉園物産会〈内藤剛甫〉天保31832医学館薬品会
福井春水薬品会山本(亡羊)読書室物産会
物産会 西村広休 於名古屋・射智延命寺
薬品会 伊藤圭介 於名古屋・修養堂
尾張浅井家医学館薬品会 〈浅井紫山〉天保41833医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
尾張浅井家医学館薬品会 〈浅井紫山〉天保51834医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
尾張浅井家医学館薬品会 〈浅井紫山〉天保61835医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会(岩永文楨会主)
嘗百社本草会 於城南一行院(石黒済庵、大河内存真、
吉田高憲、大窪昌章、伊藤圭介)水谷豊文追薦
天保71836医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会
倭名類聚鈔草部展覧会 於視音亭天保81837医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
物産会 於玉造服部実正堂
物産会 於呉服町栗山静庵宅・人形会(会主・栗山)
吉田雀巣庵博物会(吉田高憲)天保91838福井春水薬品会(於浅草大吉屋)山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会・人形会(岩永文楨会主)
吉田雀巣庵博物会天保101839医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会 於三番貞円禅庵・人形会(貞円庵会主)
吉田雀巣庵博物会天保111840医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
浅井新兵衛薬品会 於小田善
梶木町内藤唯一氏物産会・人形会(会主・内藤)
吉田雀巣庵博物会
天保121841医学館薬品会浅井新兵衛薬品会
物産会 天満西寺円通院・人形会(円通院にて、会主・古林正見)
吉田雀巣庵博物会天保131842医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会・人形会(岩永宅)
吉田雀巣庵博物会天保141843医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会・人形会(会主・岩永方)
吉田雀巣庵博物会弘化11844医学館薬品会高井正芳物産会
山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会
吉田雀巣庵博物会弘化21845医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
異国草木会(高井正芳、賀島近信)
吉田雀巣庵博物会弘化31846医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会・人形会(於玄昌堂)
吉田雀巣庵博物会弘化41847医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会・人形会(於玄昌堂)
吉田雀巣庵博物会嘉永11848医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
吉田雀巣庵博物会
薬品会 伊藤圭介 於名古屋・修養堂嘉永21849医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
吉田雀巣庵博物会嘉永31850医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
吉田雀巣庵博物会嘉永41851医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
吉田雀巣庵博物会嘉永51852医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
吉田雀巣庵博物会嘉永61853医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会・人形会(岩永宅)
吉田雀巣庵博物会
医学院古方薬品会(高井正芳)
医聖書院高階氏薬品会安政11854山本(亡羊)読書室物産会
吉田雀巣庵博物会安政21855山本(亡羊)読書室物産会
吉田雀巣庵博物会安政31856山本(亡羊)読書室物産会
吉田雀巣庵博物会安政41857山本(亡羊)読書室物産会
玄昌堂物産会
吉田雀巣庵博物会安政51858山本(亡羊)読書室物産会
桜斎居士(伊藤圭介長男)追薦博物会 於旭園安政61859医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
吉田雀巣庵博物会万延11860 雀巣庵追薦博物会 於七ツ寺文久11861山本(亡羊)読書室物産会
海紅亭物産会 山本渓愚
伊藤圭介博物会 於名古屋・修旭園文久21862医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
海紅亭物産会 山本渓愚
嘗百社博物会 於名古屋・修旭園文久31863医学館薬品会山本(亡羊)読書室物産会
海紅亭物産会 山本渓愚元治11864 人形会(岩永宅)慶応11865医学館薬品会慶応21866 物産小会 於名古屋・遊心庵(伊藤圭介) 慶応31867医学館薬品会
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参考文献:
中田吉信:本草家阿部照任とその著作、参考書誌研究・第一一号(1975)
上野益三:日本博物学史、講談社学術文庫(1989)
磯野直秀:薬品会・物産会年表、Hiyoshi Review of Natural Science Keio University No.29, 55-65 (2001)
杉本つとむ:江戸の博物学者たち、講談社学術文庫(2006)
土井康弘:本草学者 平賀源内、講談社選書メチエ(2008)
磯野直秀:小野蘭山年譜、Hiyoshi Review of Natural Science Keio University No.46, 71-94 (2009)
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平成二十三年二月一日から三月十三日まで東京国立博物館では「医学館の漢籍」という特集陳列が行われた。この医学館は徳川将軍家の奥医師多紀氏の医学塾躋寿館が寛政三年(1791)に幕府直轄の医学館となったもので清朝考証学の影響を受けた中国古医書の研究などが行われた。東京国立博物館の陳列では中国古医書の他、代々の多紀氏の著作や、医学館で学んだ渋江抽斎や森立之の著作なども陳列された。
この医学館では躋寿館時代から毎年のように薬品会という物産会が開かれたた。