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2024.10.26

・最近の読書傾向として気づいたことがある。多分私は誰かの言葉を探している。だから長い物語が全然読めなくなっている、ような気がする。何かこう、ハッとするような学びがあるような、そういう言葉を探して、そういう言葉がありそうな本ばかり手に取っている。めちゃくちゃ嫌な傾向だ。意識的に気をつけたい。間違っても読書を「インプット」のためになんかしたくない…。

・ずっと読みたかった天童荒太さんの「包帯クラブ」を読んだ。何度も読んでいる宮地尚子さんの「傷を愛せるか」で紹介されていてずっと気になっていた本。少年少女たちが、誰かが傷ついた場所や傷つけられたものに包帯を巻く活動をする『包帯クラブ』を結成する物語だ。

一時期からずっと、傷のある他者に対して自分はどういう態度でいられるかをめちゃくちゃ考えていたので、すごく勉強になった。当事者は傷を認めることがまず辛いと思う。傷ついている自分は惨めで汚いと思っていて、それを直視するのは死ぬより苦しいことかもしれない。他人にあなたは傷ついてるんだと指摘されるのも、例え優しく言われたとしても、ものすごく屈辱的であるかもしれない。なんならこうやって包帯を巻かれることも、私の傷をあなたたちの綺麗な物語の一部にしないでほしいと思ってしまうこともあるかもしれない。そういうことをめちゃくちゃ考える。考えすぎの可能性はある。でも傷を負った心はそのくらい脆いものだからと私は思っている。私は今毎日包帯を巻き直す生活を送っているけど、巻かれた包帯を見るたびに、「あぁここに傷があるんだ」「丁重に扱わなくては」と思う。でも同時に、包帯を巻き直すたびにそこに傷があることを意識させられてめちゃくちゃキツい。自分が怪我人であることが周りから見てとれる状況であるということも、落ち着かないし悔しいことだ。包帯が巻かれればそれで安らぎが手に入るなんてことはない。物語内でも、包帯が巻かれた景色を見て、がっかりした、腹が立ったという意見も上がっていた。でも、それでもやっぱり大切なのは、その傷が「手当てされた風景」になることなのかなと感じた。ここ(傷)に包帯を巻いてくれた人がいるというのは、思ったより私の心を支えてくれている気がする。例えそれが、仕事で巻かれたものであってもだ。あまり他者ありきの話をするのは好きではないんだけどな。でも、痛々しい傷痕を晒して歩いているのに自分を含めて誰もが見て見ぬふりをして荒れ果てていく景色より、腹が立っても悔しくても、「痛かったね」と言って手が当てられた景色の方が、長く見ていくならしんどくないかなと思う。傷を負ってからも生きていくしかないからね。ただ、私の場合は分かりやすい外傷だから「手当てされた風景」になるのはすぐだったけど、それが心の場合は、傷が「手当てされた風景」になるのに膨大な時間がかかると思う。しかも膨大な時間がかかった上で、どうにもならなかったというところに着地する可能性もあると思っている。でもそれはそれで、ひとつの結論じゃないかなとは思う。それは別に諦めたのと同義じゃないし。

「か弱い草の傷から崇高な香りがする」という意味の韓国語が書いてあるらしい栞。

傷の受容とかについてはほんとずっと考えていきたい。もうこれは私の人生でずっと向き合っていくべきことのひとつだと思う。心に包帯を巻きたかった人も、ただ手を当てたかった人もたくさんいる。

・新入りぬいぐるみたち


ブルーロックのキャラクターたちが…アニマル化した姿のぬいぐるみです…(なんて??)
わけがわからんけどかわいいから良いと思います。ブルロ、なんの脈絡もない謎のグッズがたくさんでます。本当にやべ〜ジャンルだ…。


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