2023年5月15日
スマナサーラ長老の動画を見てテーラワーダ仏教を知り、瞑想初心者指導も受ける前に、絶対に解脱するのだ、と決意したのは昨年の冬。
その決意はいまこれを書いている現在も揺らがない。ただし、それがいかなることなのかは、以前よりは少しずつ理解できてきている部分は増えてきている。
先日思い至ったこと。お布施などの善行為をし続け、より功徳があると思えるお布施をしたりすると、大変な喜悦を感じる。
そこで、これをまたやりたい、やり続けたい、と思った。そこでハタと思った、これは愛着、執着である。
善行為をしまくって天界の神に生まれ変わることは解脱ではないと理解している。解脱すると決意したのだから、そこは間違ってはならない。
それで、天界の神としての生にはいっさい苦痛がなくて、喜びと満足しかない…というなら、そんな生を受けたいという欲を生じもする。どころか、いま、そんなことは絶対に叶わないと思っている数々の欲求がいまだにあることを自覚した。
それで、その欲求がいま叶ったら、
はたして解脱を目指して瞑想してお布施するだろうか?と思った。
そうなっても、もはや悪行為はしないかもしれない。お布施の喜びも欲しい。すべての望みが叶っても、そうでない生命を蔑むようなことは戒めるかもしれない。
しかし、すべて思いのままになっているのに、生活に必要最低限の雑事をする以外の時間をすべて瞑想する、ということをするだろうか?
しないと思う。叶った欲に溺れて、満足して、解脱などよりも、その満足な生が続くよう、死後もそのような生を再び受けられるように、欲にまみれた善行を為すであろう。
今生で叶わないと思ったすべての望みが、善行為しまくれば来世で叶うかもしれない…ならば、そんな生を受けたい、というこころの働きを発見した。
これでは解脱できない。
すべての欲を離れる。生存欲があることは仕方ないが、あるというだけの話であって、それを肯定しない。快適欲も是として認めない。善行為による喜悦も、感じた瞬間にそう観察して、おわり。
観察して、おわり。実況して、おわり。
解脱を目指す生は続きます。
精進します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?