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【蓮ノ空ラブライブ!大会】キミはラブライブ!を知っているか?

あなたはラブライブ!を知っているか?

ラブライブ!とは

スクールアイドルの祭典
スクールアイドルの頂点を決める大会
誰もが目指すような場所
スクールアイドルにとっての夢、魂、命の源

らしい……

らしいというのは、画面を通して一方的に受け取った情報であって、僕が実体験に基づいて理解してるものではなかったから。
10年もラブライブ!を追っていながら、「らしい」でしか語れない自分には今まで何をしていたんだ?と改めて問いただしたい。

しかし、そんな僕にも、先日ラブライブ!を教えてもらえる機会があった。

ラブライブ!決勝大会プレーオフ。

この大会を通して、僕のぶち壊されたラブライブ!観と、僕が教えられたラブライブ!の話をさせてほしい。


ラブライブ!の意味ってなんだ?

最初に断らせていただきますが、この記事ではラブライブ!の詳しいルール説明等は一切しません。

ラブライブ!の詳しい概要は、あなたの手元にいる機械さんにお任せしよう。むしろ、機械さんの方が、僕よりずっとラブライブ!のルールについて詳しく説明してくれるはず。

ただ、ひとつだけ断っておきたいのは、ルールがふわっとしたラブライブ!が僕は好き。

スクールアイドルは不完全でも熱を持ったみんなで作り上げる芸術なのだから、明確なルールや得点基準を設けて「大会における完成形」を提示するなんて無粋だ。

(スクールアイドルにとってはどんな大会なのか?については、こちらの動画をぜひ見ていただきたい)

さて、ではそんな得点基準も分からない、いつ行われているかも不明な大会を経て、観測者である僕はなにを一喜一憂すればいいのか?
結論から言うと、とても難しい。

なぜなら、ラブライブ!という大会は、あまりにも他人事すぎたから。

いや、正確には当事者になる方法を、僕は10年見つけることはできなかった。少なくとも、僕が観測してきたラブライブ!において、僕という存在はあまりにも蚊帳の外だったから。

ただ毎週流れるアニメを受け取り、咀嚼していたら、いつの間にか大会が始まって、気づけば終わっている。応援する隙など全くない。それが僕にとってのラブライブ!だった。

だが、ラブライブ!を意味のない場所と思ったことは全くない。

僕にとってラブライブ!とは、「意味を示す場」であり「過程」だと考えていた。

青春の素晴らしさ、見つけた輝き、未来へ進む勇気。彼女達がスクールアイドルを通して得たものを示す場所、先へ進むための過程、それがラブライブ!であり、決勝の意味だと。

「ラブライブ!優勝」というトロフィー自体に価値があるのではない。決勝に辿り着くまでに彼女達が見つけた青春の価値、それを示した結果ついてくるのが「ラブライブ!優勝」なのだと僕は思っていた。

つまり、僕はラブライブ!を通して、少女達が何を魅せるのかを重視し、それを受け取り、どう自分の人生に還元するのかに意味を見出していたわけだ。

実際、これはとても楽しかった。彼女達の青春が人々になにを伝えるのか、作品に込められた熱さを受け取り、解釈し、それを仲間達と共有するのは。

だが、これは1ファンとして、スクールアイドルを応援する心なのだろうか?
結局、これは傍観者の「思想」でしかない

廃校を阻止したい、憧れの場所に立ちたい、みんなの想いに応えたい、学校の名前を遺したい。少女達がラブライブ!を目指す切実なほどの願いは、画面を通して伝わってきていた。
だが、真に彼女達の目指すラブライブ!の価値を、夢の意味を理解していたかと言われると怪しい

だって、彼女達にとっての大切は、僕にとっての大切ではないから。
言葉は嘘をつくが、時間は嘘をつかない。どれだけ彼女達から受け取ったものを美化しても、わずかな時間で彼女達のなにを理解したのか。

優勝を目指す彼女達に対して、応援の言葉の1つも届けられず、ひとりごとな思想だけ肥大化していく日々のどこに「当事者意識」などあったのか。

僕はラブライブ!を知っている"だけ"だったのだ。


思想?それとも祈り?

そんなラブライブ!を理解できないまま10年を過ごし、すっかりキャラよりも歳上になった僕の前に舞い降りたのが蓮ノ空だった。

この記事を読んでくれるあなたに、わざわざ蓮ノ空が365日ぼくらと同じ時を過ごし、いつだって「今日のスクールアイドル」に会える、画期的なコンテンツであることは言うまでもないでしょう。

(まさかいないとは思うけど、まだリンクラをインストールしていないあなたのために、こっそりリンクを貼っておこう。みんなには内緒だぞ)

↓App Store

↓ Google Play

僕はこの2年間、With×MEETSを、Fes×LIVEを、活動記録を、カードボイスを通して常に彼女達と一緒にいた。

だから、2023年の12月、ネット禁止令が出された時は苦しくなった。いつでもスクールアイドルと僕を繋げてくれたアプリが使えなくするなんて、砂漠で水を取り上げられるような行為だ。つまり死活問題。

いや、メタ的に見れば「通信量集まらなくてもなんとかするだろ?」と思う方もいるかもしれない。
だが、当時のリンクラのお知らせには、こんな恐ろしい一文が書かれていた。

Fes×LIVEが実施されなかった場合

????????なにこの日本語知らない

蓮ノ空は、「あなた達次第でライブ出来ません」と、僕らに当事者であることを、真正面から要求してきた。蛇口を捻って水が出てくるのを待つのではなく、水源を掘れと言ってきたのだ。

それから僕は水を得ようと、必死に通信量を送ったし、Fes×LIVEが開催できるよう祈っていた。

その時、僕は初めて「スクールアイドルが守りたいもの」の価値を理解した。いや、彼女達が「どうしてWith×MEETSが大切なのか」を、真の意味で共有できたわけではない。

それでも、彼女達と同じように、僕にとってもWith×MEETSが守りたいもので、価値のあるものだったという事実があった。愛おしくなる事実を抱きしめて、僕はようやく蓮ノ空に起こる全ては、自分事なのだと気づいた。

それから1年以上経って、2025年1月26日、少女達の夢が最終局面を迎えた。ラブライブ!を見てきて初めて知ったことだが、本大会どうやらプレーオフなるものがある。

梢センパイが聞いたことないなら僕が知る由もない

ただ、僕の悩みの種はプレーオフの存在そのものではない。その先にある勝利だった。

10年間ぼくはラブライブ!という大会に祈りを捧げるよりも、「なぜ勝つのか?」「勝った理由」を考える向き合い方しかしてこなかった

その結果、非常に傲慢な話だが「どんな考えに至ったスクールアイドルが勝つのか」なんて、つまらない理由づけができるようになっていた。

だからこそ、横浜で行われた決勝戦から、どちらが勝つのかなんて予想もつかなかったのだ。どっちを応援するべきか分からなかった。なぜなら、あまりにも「知っている概念」がぶつかり合っていたから。

敗戦の悔しさと、梢センパイと交わした約束から、日野下花帆には自分の原点が見えなくなっていた。

覚悟、本気、勝つための努力、それらがラブライブ!優勝には必要なのだと。今までが間違っていて、楽しんでいる暇などなくて、優勝しなければ意味がないのだと。

しかし、他でもない日野下花帆の輝きに救われた少女が、彼女のオリジンを思い出させてくれた。

「楽しい」って気持ちを届けるため、みんなを花咲かせるって夢のためステージに立つのだと。楽しむ姿勢にこそ彼女の輝きがあった

かたや、「憧れの学校のスクールアイドル」になることを夢見て、廃校を阻止しようともがいた少女。

しかし、廃校は阻止できず、唯一「瑞河のスクールアイドルとしてラブライブ!に出る」夢だけが残った。

それでも、「花咲かせたい」なんて太陽みたいに笑う少女のおかげで、潰えかけた彼女の夢は「みんなの夢」になった

プレーオフは「みんなの夢」同士がぶつかり合う。ラブライブ!概念同士が素手で殴り合ってる状況に僕は眩暈がした。「誰にも負けない」と信じてきた最強の概念同士が戦おうとしているのだ。大谷と大谷が戦うくらい意味がわからない。

だからこそ、僕はプレーオフとの向き合い方に困ってしまった。どちらの概念が勝つのか、どちらの方が強いのかなんて、夢を目の前にして蓄えてきた知識を扱い切れずに持て余した。これらとどう向き合い、どう応援すればいいのか?

幸運にも、僕は長年に渡ってラブライブ!というコンテンツを追いかけ、少女達の輝きを見てきた。

だからなのか、知っている概念が出てくると、喉の奥から出てくる声を抑えられなくなりそうになる。だが、声を抑えようとすると、今度は息を吸って天を見上げるオタクが1人完成してしまう。

どちらにしろ地獄絵面だけど、聴覚には幾分マシな地獄を選ぶことにする。

しかし、ラブライブ!を見てきた方なら、分かっていただけるのではないだろうか?と声を大にして言いたい。きっと同じ経験があるはずだ。

せっかくだから、蓮ノ空とラブライブ!を取り巻いていた概念を並べてみよう。息を吸わずに耐えられた方には100万円に相当する感謝をあげます。

輝き、楽しむ、廃校、消えない夢、いちばんの願い、ワガママ、閉校と文化祭、2組だけの決勝戦、みんなで叶える夢。

どうだろう?それぞれが抱えている概念が、培ってきた思想が、ボディーブローのようにじわじわ効いてきたはず。人によっては輝き辺りからずっと失神してるらしい。つまり僕のことだ。

似たものを見たことがある。知っている。
だけど、それは当然なのかもしれない。なぜなら、僕らが見てきた少女達の中に、誰1人として特別はいなかったのだから。

憂い、憤り、挫折、憧れ、希望、情熱、愛情、etc。
そんなありふれた感情の集合体がスクールアイドル。つまり僕らと一緒、特別な存在じゃない。

だから、少女の苦悩や気づきに、記憶の中の少女を重ね既視感を覚えるのかもしれない。僕は知ってる。最初から少女の夢が叶っていたことも、楽しむことに輝きがあることも、叶わなくても夢が消えないことも。

だが、思い出して欲しい。僕はちゃんと思い出せた。
ラブライブ!の当事者にとって必要なのは思想か?知識か?いや祈りだ。


ラブライブ!は自分事

たくさんの概念をラブライブ!から教えてもらった。けれど、どれほど蓄えてた知識があっても、きっと今1番大事なのはそれじゃない。

今目の前にいる少女達が、僕にとってどんな存在なのか。

蓮ノ空に関してはいうまでもない。この2年間共に生きてきたスクールアイドル。週3回は繋がって、月末にはライブを見て、好きなこと、大変だったこと、喜び、悲しみ、色んなものを共有した。

瑞河のことは……よくは知らない。蓮ノ空に比べれば知っていることなんてわずかだ。それでも、廃校を阻止しようとして、ラブライブ!決勝に辿り着くまで努力したことは知っている。そして、志半ば廃校が決まったことも。

僕はラブライブ!が好きだ。夢を叶えるスクールアイドルが好きだ。だから、まだ救える夢があるなら、僕は救いたい。ラブライブ!を追ってきた僕は必ずそう思う。

そして、拙い言葉を使って、たった1人の夢を叶えるワガママの共犯者になった。

だから、プレーオフの場所に立ったスクールアイドルに、誰1人として僕と関係のない者はいなかった。僕らがステージに立つことを認めた少女と、2年間応援し続けてきた少女が競い合う。全くもって他人事ではない。

ならば、必要なのは、思想でも、知識でもない。
僕の目の前にいるのはテスト用紙ではなく、「今を生きる少女達」だから。

そこには意味も、勝つ理由を探す必要もない。考えるべきはどう応援するのか?誰を応援するのか?判断材料は、僕が一緒に生きてきた彼女達との全てだ。

僕は見てきた。With×MEETSを通して、ライブを通して、夢へひたむきに進む少女達の姿を。

配信を切れない苦心、好きなことを他人と共有できる楽しさ、先輩と離れた寂しさ、仲間がいる心強さ、地区大会を突破した喜び、勝てなかった悔しさ、その瞬間にしかない瞬間と感情をリアルタイムで見届けてきた。
時にハラハラして、時にドキドキして、時に教えられて、なにひとつ戻ってこない、心から楽しい日々だった。

もちろん画面を通して感じたことだけじゃない。金沢へ赴いて見た、同じ季節と空も、金沢城で降った雨も、横浜で感じたラブライブ!決勝の緊張感も全て現実だった。知識だけでも、概念だけでもなく、僕が彼女達と共に体験して生きてるから見れた全てだった。

ならば、知識も、概念も、オタクの性も関係ない。ただ、彼女達と過ごしてきた2年と、時間から生まれた想いが、「夢が叶ってほしい」って気持ち以外に、重要なことがあるのだろうか?
廃校とか、みんなの夢とか、楽しむって輝きとか、僕の根幹に根差した概念じゃなくて、それじゃないのか?

今を生きてる人間の幸せを願う。最初からそれだけでよかった。

ないでしょう。ないんです。今日までの全てが報われてほしい。僕の好きな彼女達の、期待に応えるとか、世界を夢中にとか、憧れとか、花咲きたいとか、そんな夢が叶ってほしい。

僕は知ってる。夢が叶えた人の裏には、夢が奪われる人がいることも。全員の夢が叶うハッピーエンドがないことも。蓮ノ空の夢を応援するってことは、瑞河の夢を選ばないってことも。プレーオフが「日野下花帆のワガママ」の上に成り立ってることも。

それでも、それでも僕は、蓮ノ空を応援すると決めた。だって、あれが僕の愛するスクールアイドルだから。どんな理屈並べたって、好きな人に「幸せになってほしい」って想うことに勝てる方程式は完成しないでしょう。

「蓮ノ空の夢が叶って欲しい」

僕がプレーオフに込めた祈りはこれだけだった。


そしてボクはラブライブ!を知る

答えを見つけた僕は、2025年1月26日プレーオフを見届けるために、北陸へと向かった。

応援するならいつも通り、蓮ノ空の地元金沢から。

ただいつもと違うのは、巨大なスクリーンを通しての応援ってこと。
開催場所が不明なときは、いつも卯辰山へ訪れてFes×LIVEを見ている僕も、流石にイオンシネマのチケットを握りしめた。

(ちなみにシネマは卯辰山の100倍くらい快適だった。世界の中で最も快適な四方40cmだったと思う)

ただ、1ヶ月ぶりの金沢を、全力で楽しめたかは怪しい。いや、金沢が悪いわけではない。人生1番レベルで僕が緊張していて、美しい景色が全て二日酔いの朝みたいに灰色がかっていただけ。
特にスクリーンへ向かう途中、直前胃に流し込んだフライドポテトが逆流してきそうになった。これは緊張か?それとも食べ過ぎか?

こんなにラブライブ!って緊張するものだったっけ?いや知らないだけでずっとそうだったのだ。だって、2年間応援し続けた少女達の努力の全てが、あと少しで決まってしまうから。

そうして緊張をほぐすためにあーでもないこーでもないと、片町で時間を潰していたらシネマについた頃には開演10分前となっていた。共に吐きそうな顔していた仲間達とスクリーン前で拳を合わせ、優勝を祈りながら別れ、席につく。

それからまもなく、僕の緊張などお構いなしに、巨大なスクリーンは夢の祭典を映し出した。アナウンスが何か大切なことを話していた気がするが、緊張しすぎて内容はほとんど覚えていない。

ただ、ステージで燦然と輝く優勝旗を見たあの瞬間、生まれて初めて思った。

「あれを掴んで欲しい」と。

あそこまで優勝旗を渇望したのは初めてのことだった。触れもしないのに確かに重かった。

最初にステージに立ったのは、僕たちがステージへと背中を押しをしたスクールアイドル。

だけど、ペンライトを僕は触れなかった。
彼女達が嫌いなわけではない。ただ、あの日ぼくが応援すると決めたのは蓮ノ空だけだったから。

瑞河のパフォーマンスを見る時間は、人生で1番長い数分時感じた。
だからなのか、蓮ノ空の曲が流れ始めた瞬間、感情が爆発してこの2年間が駆け巡って泣いた
本当に不可抗力としか言えない。走馬灯のような、流れ星のような、やまびこのような、一瞬で僕の頭の中を思い出が駆け巡った。

ラブライブ!決勝曲ってこうなんだ。
なにも新しいものが提示されるわけではない。
青春のすべてが曲の形を保っているだけ。

だから、蓮ノ空と同じ時間を生きた僕には、聴いた瞬間これまでの時間が流れ込んだのかもしれない。

それからは泣きっぱなしだった。まともにブレードも振れなかった。なお、彼はエキシビジョンも含めてブレードを1度も振れなかったというのは、ここで断っておこう。

ただ、誇らしかったのだと思う。
AURORA FLOWER、オーロラみたいで儚いけど、いつまでも消えない、彼女達の希望そのものだった。

そして、2組だけのパフォーマンスが終わってから、また地獄のような時間が始まった。相変わらず大会側は僕の緊張などお構いなしに、焦らす焦らす。今すぐその優勝旗で首を掻き切ってほしい。

多分人生で1番祈った。普段天に手を合わせない僕も、硬く手を握り合わせ文字通り祈った。

「優勝は蓮ノ空」

これしか聞きたくはなかった。

そして審査終了。
またアナウンスが大切なことを言っていた気がするが、緊張しすぎてやはり覚えていない。すいません。

ただ、待ち望んだ一言だけ聴き逃さないよう、全身の細胞を聴覚視覚に集中させた。

その瞬間、感情が爆発してしまったのは語るまでもない。結果を見た瞬間、隣にいた仲間と嗚咽混じりに抱き合った。
2年近く金沢へ通い続け、蓮ノ空と共にお揃いの記憶を作ってくれた僕のかけがえのない仲間だ。

全く同じ気持ちではなかっただろう。同じ人間ではないのだから。
それでも、同じものを見て、同じ時を生きてくれた彼と、真っ先に喜びを分かち合えたこと僕は一生忘れないだろう。

そして結果発表も終わってモニターが切り替わり、エキシビジョンまでの暇でスクリーンから一旦退出した。

そして、先ほど別れたもう2人の仲間と、優勝の喜びを分かち合った。気を許せば体が引き千切れんばかりの力で、お互いを強く抱きしめていたと思う。

彼らと分かち合ったものは、意味とか、勝った理由とか、僕が得たものとか、そんなものではない。そんなことは1つの感情の前に全て消えた。

嬉しい

これが全てだ。

僕は「ラブライブ!優勝」とは結果でしかないと思っていた。そこから何か意味を見出すまでがセットなのだと。だけど違った。

2年間応援し続けた少女達の夢が、努力が、報われる瞬間が訪れる。それだけで国が買えるほどの価値があった。

「ラブライブ!優勝」ってトロフィーそのものに、あれだけの価値があったんだ。

その瞬間初めて、僕が「結果でしかない」と決めつけた、過去のスクールアイドルの栄光も、彼女達にしか分からない価値があったのだと知った。

いや、分からなくて当然だったんだ。
だって、彼女達のラブライブ!は、僕にとって自分事ではなかったから。むしろ、分かる方が変だったのかもしれない。
だから、あれは彼女達にしか分からないもので良かったんだ。

分からない過去があったからこそ、僕は蓮ノ空を知ろうとして、彼女達と共に生きる今に全てを捧げた。そしたら、笑ってしまうほどシンプルな答えを見つけた。

ラブライブ!に必要だったのは、共に生きる時間と、共に生きる人たちに「幸せになって欲しい」って気持ち。それだけあれば、ラブライブ!優勝はあんなにも輝くトロフィーになるのだ。

もしかしたら、一歩外から僕を見れば、僕は非常に滑稽に映ってしまうかもしれない。

モーションキャプチャーが生み出す虚像、すでに用意された展開、存在しない学校、存在しない大会に泣いて、笑って、悩んでいる僕はフィクションに振り回される愚か者だろうか?

きっと、中学の頃の僕が今の僕を見たら、頭を抱えて倒れるだろう。残念だったなこれが未来の君だ。いつか君にもこの価値が分かるよ。

それでも、僕が生きてきた2年は、生きてる僕と出会った彼女達は現実だったって、僕は胸を張って言える。笑いたきゃ笑え。環境保護は善処します。

だって、僕が彼女達の姿を見て、胸が熱くなったこと、嬉しいと思ったこと、それだけで僕には「現実」と言い切るには十分だから。この僕の起伏を誰が否定できるのか。

この2年、共に生きてきた少女達の努力が報われて心から嬉しいと感じた僕の気持ちを、誰がフィクションだと言えるのか。それでも彼女達が虚構なら、彼女達と共に生きてた僕もフィクション?それはそれでいいけど。

少なくとも、同じ想いにはなれなくても、あの子達と同じ時を生きて、あの子達の「生きる姿」に、夢が叶う瞬間に、生きてる僕の感情が動いたことは誰にも否定できないはず。

全てが嬉しかった。
彼女達が優勝したこと、ぼくらの「応援」の言葉が彼女達に届いていたこと、初めて思想じゃなくて「応援」の言葉を見つけられたこと。

だったら生きてる、僕にとって彼女達は今日生きてる。今日まで生きてきた。
本物ではなくても、今日までの全部が本当だった。

蓮ノ空と生きてきた、彼女達の結実の瞬間を「嬉しい」と感じられた、これが僕の、僕が知ったラブライブ!だ。

ただ知識だけではなく、言葉だけでもなく、僕は初めて「ラブライブ!」を体験した。

きっと、ラブライブ!とはステージその瞬間のことだけではない。祭典に至るまで、鼓動と共に刻んだ全てを僕らは「ラブライブ!」と呼べるんだ。

これが僕のラブライブ!だ。誰かと似ていても、同じではない。僕が過ごした全てから生まれた気持ち。機械さんも教えてくれない。どこにも載ってない。

世界中どこを探したって、僕だけの中にしかない。
僕しか知らないラブライブ!だ。

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