孤独をテーマに書いてみたら?と言われたので、、、
私の記事をよく読んでくれる友人に「孤独について書いてみたらどうか」と言われたのでとりあえず書いてみます。
孤独って言葉、カッコつけてる感じがするので使うのは少し気がひけるのですが、この2年で自分が経験した感情は間違いなく孤独という言葉で表現するに値するのではないかと思っています。
仕事を辞めて背水の陣で、ロースクールにも通わず、予備校の映像授業だけを頼りに合格率4%の司法予備試験に挑んだのですから状況としては孤独なんだとは思います。
でも、私の孤独はそれだけで説明できるものではありませんでした。
ただ1人で勉強するのが辛い、というだけの孤独であれば、合格後のウハウハな毎日を想像してそれを糧に頑張ればいいだけの話。
「世間との価値観のずれ」って書くと一気に安っぽくなるので嫌なのですが、一言で表現するならばそういうことなんだと思います。
自分が大切にしていることは世間の人からすればどうでもいいみたいだし、世間の人が大切にしていることは自分からすればどうでも良く思える。
そして「世間と価値観が合わない」で止まらずに、さらにそこから強烈な自己嫌悪が始まりました。
当時の自分は世間と価値観が合わないのは自分が人間としてクソだからだという安易な論理の飛躍をしていました。楽なんですよねそういう論理の飛躍って。ある意味頭使わなくていいので。もはや自傷行為とまでいえる。
「自分は頭の良さしか取り柄がない」が口癖でした。人間としてクソだから社会の人に好かれることもないし、頭の良さしか取り柄がないんだから、試験くらい結果出さなきゃ「え、あんたなんで生きてんの?」って言われるような気がしていた。
「頭の良さしか取り柄がない」と言っている割には頭の悪い論理飛躍で自分を追い詰めている点には矛盾しか感じませんが、まあ、そこはまともな精神状態じゃなかったからということで。
だから、私にとっての試験勉強は自分を高める行為ではなくて、劣った人間性を能力値でカバーするというある種の補填作業でしかなかったんです。
そんな極限な精神状態から生まれたのが私のnoteです。
自分は社会のため、誰かのために頭を使っているんだという自負を得たかったんです。人間性は劣っているかもしれないけど、それでも自分は自分の能力を社会のために役立てようと努力しているんだから、自分はいい人なんだと思い込みたかったんです。
当然、世の中を良くしたいという純粋な思いもありますが、そこには自分の存在価値を確認したいという焦りのようなものが混ざっていました。
だから、自分の記事は読者の数は大したことないし、専門家からすればツッコミどころがたくさんあるかもしれないけど、それでも自分にとって大切なものです。
「我思う、故に我あり」という言葉がありますが、自分の場合「我書く、故に我あり」です。
記者だからかもしれませんが、「書く」という行為は自分にとってそれだけ重要なもので、マグロが泳ぎ続けなければ死んでしまうように、自分は書き続けなければ自己嫌悪に押し潰されて死んでしまっていたかもしれません。
今は孤独や自己嫌悪は克服したんだと思います。
いや、克服したというのは言い過ぎでしょうか。
ただ、少なくともこの記事をかけているということはそれらの感情を自分なりに消化しつつあるということではあると思います。
これからも記事は書き続けるでしょう。
ただ、それは今までのような書かなければならないという焦りから生まれるものではなく、もっと純粋な書きたいという感情から生まれるものでありたい。
あと自己嫌悪の癖はやめようと思います。自分を嫌いになることは自分を認めてくれる数少ない人たちに失礼な気がするので。
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