日露戦争こそ20世紀最大の事件

真実を確かめよ!
「歴史を変えた大事件」

1900年6月ロシアは義和団の乱に乗じて満州を占領。その過程で黒龍江(アムール川)を侵略、村を襲い虐殺した。清国人が約25000人がロシア兵により川へ投げ捨てられた。
ロシアがそのまま満州を経て朝鮮へ南下すればそれは日本にとって脅威の何ものでもない。黒龍江は日本の明日。
当時はその脅威は日本中で共有されていた。
朝鮮は日本の生命線となっていた。
ロシアが迫って来た。

1904年ロシアに対して宣戦布告。
首相伊藤博文
「もし不幸にして戦、利あらず、朝鮮半島、露軍の奄有(占領)するところとなり、旅順及び浦塩斯得(ウラジオストク)の艦隊、我が海軍を撃破し我が海洋を制圧するに至らば世は自ら銃剣をひっさげて卒俉(一兵卒)に投じ敵兵をして一歩だに我が領土を不磨ざらしむべし」

日本は国家存亡のために戦わざるを得なくなった。
結果は日本が勝った。

アメリカ新聞「ニューヨーク・サン」
1905年5月30日社説
「日本艦隊がロシア艦隊を潰滅したことは海軍史のみならず世界史上例のない大偉業である。日本が鎖国を解いたのはわずか50年前であり海軍らしい海軍を持ってから10年にもたたぬのに早くも世界一流の海軍国になった。」

1848年黒船来航以来、勝海舟、坂本龍馬らにより作られた海軍がここに繋がった。それがロシアバルチック艦隊を打ち負かした。

当時は国産では軍艦は作れなかった。イギリスが優れていた。

ロシア陸軍武官ゲ・バノフスキー中佐
「日本軍がヨーロッパの最弱小国に太刀打ち出来るまでには、数十年、おそらく100年はかかるであろう。」

それでも日本はロシアに立ち向かい、ウラジオストクのロシア太平洋艦隊とと完全勝利を収めた。特に日本海海戦は史上に刻まれる完全勝利であった。
この戦争は世界の有色人種にとっての希望となった戦いでした。
戦争を美化するのは良くない。しかし日露戦争だけは違った。それは世界史を変えた戦いであった。とりわけ有色人種に力を与えた。

中華民国初代総統 孫文
「これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この勝利は全アジアに影響を及ぼし全アジア民族は非常に歓喜し極めて大きな希望を抱くに至った。大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与えナショナリズムを急速に高めた。」

戦力では圧倒的に劣る日本が勝つ為の秘策。自らの工夫によって克服した。
日本 戦艦6隻、巡洋艦6隻
等しく15〜16ノット30kmて走る。連帯する。
ロシア バルチック艦隊新戦艦5隻  16〜18ノット
旧戦艦12ノット、輸送船10ノット と一緒に動く
艦隊としては9ノット 17km

団体としての日本の力、団体力、これが日本のお家芸。

バルチック艦隊 ロジェストペンスキー司令長官
「我が艦が速力で日本の艦に劣ることは事実であるが戦闘において速力は重大な要素ではない。我々は遁走(とんそう)することは考慮しないからだ。」
ロシアは速度は逃げる時にしか重要性はないと考えていた。この思想は大砲で真っ向から撃ち合うだけのものでした。

日本は高速で艦隊を移動させることが有効と考えていた。
日本には英国で学んだ参謀がいた。秋山真之もいた。

大砲も数だけでなく質で勝つ工夫をしていた。
日本の発射速度はロシアの3倍。あの重い砲弾を人力で大砲に込めることを想像するとすざましいことだ。日本は徹底的に訓練をしていた。

火薬にも違いがあった。
バルチック艦隊の砲弾 装甲部に命中してから一定の深さまで達してから炸裂する。
日本 榴弾型 下瀬正充開発の下瀬火薬。命中しさえすれば炸裂。3000以上の破片が飛び散る。温度は3000度以上、鉄も溶ける。

旗艦スワロフ司令塔の様子 手記
「砲弾は榴弾でこれが炸裂すると何千と言う細かな破片となり飛び散りもの凄い火えんと息もつまるような黒色が淡黄色の煙の渦巻がパッと広がったかと思うと可燃物と言う可燃物は総なめで鉄板に塗ったペンキさえみるみる燃えてしまった。司令塔内にいた者は一人残らず震え上がり意外の惨状に度を失ってしまった。」

1905年5月27日 決戦の日

連合艦隊司令長官 東郷平八郎 薩摩藩士
明治天皇に拝謁
「ロシア本国より新来の敵艦隊に対しては誓ってこれを撃滅し陛下のお心を休んじ奉ります。」
日頃控えめな東郷の覚悟の表れだ!
戦略目的は撃滅しかない!
それ以外では日本は危ない🇯🇵
(この切迫感は半端でない。)

日本海軍を佐世保に集結させた。日本の防衛を全て佐世保に。その他はガラ空きにした。
バルチック艦隊撃滅だけに戦力を集中した‼️
その間、ウラジオストクからロシアが日本を攻撃しても反撃出来ない状態だ‼️

バルチック艦隊は1904年10月15日、リバル軍港(北海)を出港した。

バルチック艦隊はウラジオストクへ向かい、ウラジオストクのロシア太平洋艦隊とともに日本と戦う為にやって来てる。ウラジオストクへ行くのにどのコースを取るかは分からない。対馬海峡か、宗谷海峡か、津軽海峡か?どこで迎え撃てば良いのか問題だ!日本には戦艦6隻しかない。分散は出来ない。
バルチック艦隊が宗谷海峡を通過するには洋上で石炭補給が必要。津軽海峡は日本の機雷(海中に沈めて船が触れると起爆する)で封鎖されていた。
この事から東郷平八郎は対馬海峡で迎え撃つと判断。(この時事前に上海から輸送艦が離れた事の連絡を受けており最短コースを取るとの予測があった。)
1905年2月21日から連合艦隊は対馬海峡で訓練を繰り返した。そして息を飲んで待った。

かくして、1905年5月27日、午前2時45分、
九州西方海域203海域地点付近で仮装巡洋艦「信濃丸」が暗闇の輝線の向う側に灯火を確認した。
「来たっー❗️」これが有名な「敵艦見ユ」
信濃丸は静かに監視し間違いなく対馬海峡へ向かう事を連絡した。
午前5時35分、「連合艦隊直チニ出港用意❗️」
午前6時6分、旗艦「三笠」先頭に出港、
午前6時21分、連合艦隊発信、大本営宛て
「敵艦隊見ユトス警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出動
コレヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ波タカシ」

T字戦法がズバリ当たった‼️

T字戦法とは、やって来る敵の前方で急遽旋回し相手の先頭艦に大砲を有効に使えるように自軍の側面を見せてじ集中砲火を浴びせようとする戦法である。そして相手が進行を妨げまられ旋回した後、並走し砲撃し続ける。これが有名な「東郷ターン」である。しかし問題がある。ターンの間は遠心力に邪魔されて砲撃出来ない。射程圏内8000mでターンを始めたそれを見て、敵艦スワロフの参謀は「東郷は頭がおかしくなった」と思った。ロシアは旗艦「三笠」に集中砲火を浴びせた。艦橋(屋外)に立つ東郷は微動だにしない。砲弾が乱れ飛び水飛沫を浴びても動かない。(戦闘終了後、東郷の立つ足跡のみが乾いていた)東郷はデータから8000mの距離ではロシアの砲弾の命中率は極めて低いと分かっていた。そして距離が6500mまで迫った時にロシア艦隊先頭艦目掛けて日本が一斉射撃を開始した。下瀬火薬が火を噴いた🔥
その間、僅か30分で日本は無敵艦隊を撃破した‼️

これは20世紀で最大の歴史的事件になった。
日露戦争における日本の勝利🏅🏆

インド元首相ネール
「私の子供の頃に日露戦争というものがあった。その頃のロシアは世界一の陸軍国であった。世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩き潰されると思っていた。アジア人はとても西洋人には敵わないと思っていたからだ。ところが戦争をして見るとその日本が勝ったのだ。私は自分たちだって決意と努力次第ではやれない筈はないと思うようになった。そのことが今日に至るまで、私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそう言う決意をさせたのは日本なのだ❗️もし日本が強大なヨーロッパの一国に対して、よく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインドがなし得ないと言えるだろうか?」

有色人種だけでなくロシアの隣国フィンランド(実は日本とはロシアを挟んで一国隣、ロシアに対する脅威は同じ)大統領ユホ・クスティ・パーシキヴィ
「私の学生時代、ロシアの艦隊を攻撃したと言う最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛び込んで来た。彼は素晴らしいニュースを持って来たのだ。彼は身振り手振りを持ってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足しまた胸をときめかして、戦の成り行きを追い、そして多くのことを期待した。」

トルコ皇帝
「我々は日本の成功を衷心から喜ばなくてはならない。ロシア人に対する勝利はすなわち、我々の勝利である。」

日本にとっての戦後とは、まずは日露戦争からを言うべきである。有色人種に希望を与え、歴史を変えた。(この勝利により有色人種である日本は国際連盟常任理事国となり、人種差別撤廃条項を議決させた。しかし賛成多数にも拘らず採用は拒否された。それまで白人による絶対的な世界を一変させた。)

明治天皇 御製
「国のため あだなす仇は 砕くとも 悲しむべき 
事な忘れそ」明治37年

戦争とは言え武士の情けを忘れてはいけない。

戦時国際法を守ったのは日本だけです。

陸軍少将 中村 覚
「道すがら 敵の屍に 野の花を 一もと折りて
手向けつるがな」

相手も好き好んで戦ったのではない。理由がある。

武士道精神

そして、日本はロシアに勝利した‼️
これが日本の歴史なんだ‼️

イギリスの報道  
ロンドン・タイムス  1905年6月2日
「日本海軍の目標は単にロシア艦隊を打ち負かすことだけではなかった。これを撃滅する事だった。
そして、決意した事を成し遂げたのだ。
その理由は軍艦にも砲にも乗組員の熟練度にも戦術の巧拙にも求められない。
精神的性格や高遠な理想、やむにやまれぬ情熱や
あまねく浸透した責任感と愛国心などに求められるべきだ。
対馬海戦の勝利は武士道によってもたされたものである。」

我々の先祖は国家存亡の危機にあっても、受け継がれた、道を忘れず、道に則った生き方をして来た。

旧約聖書 イサイア328
「しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。」

2600年前のユダヤの賢人の言葉は正しく日本人

大倉正之助さんの言葉
「日本が高貴さを失ったから、乱れたから、世界が乱れた」

石井希尚氏(語ってる人、希尚さん)
【西洋が悪いとか、グローリストが悪いとか、そう言う分析も勿論ある。
しかし、何よりも自分事として捉え、我々が乱れたから、高潔さを失うことが、世界の崩壊に繋がるんだと言う自覚を新たに、高貴な人として、高貴な道を受け継いで行く為に、そして、世界がもう一度、日露戦争の時のように日本に倣えと我々の生き方を見習うように、胸を張って、肩を落とさず、上を見上げ、ともどもに力を尽くして、ともに歩んで行こうではありませんか‼️】

感動🫨🥹😢

この話を、希尚さんが熱い語りで感動して下さい。
感動のクライマックストーク
2:07:29からです。
https://www.youtube.com/live/p90LkqjBuGE?si=7q94gdyQvY3EqObm

余談です。矢野調べ
日露戦争は陸での戦いの為に海上を遮断することが必要でした。大きな戦場は支那遼東半島、満州です。食料、武器、弾薬、そして兵隊を輸送する必要があるからです。これを兵站、ロジスティックと言います。ロシアは支那旅順にも艦隊を持ち、それを攻撃する為に必要とされたのが「二百三高地」と言う高台です。この戦いで乃木希典大将は子息二人を亡くされています。この戦いで勝ち大砲を据え旅順港を「二百三高地」から砲撃して殲滅させました。そして、奉天にてロシア陸軍を退散させ陸軍は勝利(1945年3月10日)し、ロシアはそれを挽回することの出来る最後の戦いが対馬海峡での日本海海戦でした。

以下、対露「宣戦の詔」
「天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐める大日本帝國天皇は、昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
 朕、茲に米國及英國に對して戰を宜す。朕が陸海將兵は全力を奮て交戰に從事し、朕が百僚有司は勵精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を盡し、億兆一心國家の總力を擧けて征戰の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。
 抑々、東亞の安定を確保し以て世界の平和に寄與するは、丕顯なる皇祖考、丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が拳々措かざる所而にして、列國との交誼を篤くし萬邦共榮の樂を偕にするは、之亦帝國が常に國交の要義と爲す所なり。今や不幸にして米英兩國と釁端を開くに至る、洵に已むを得さるものあり。豈朕が志ならむや。中華民國政府、曩に帝國の眞意を解せず、濫に事を構へて東亞の平和を撹亂し、遂に帝國をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有餘を經たり。幸に、國民政府更新するあり。帝國は、之と善隣の誼を結ひ相提攜するに至れるも、重慶に殘存する政權は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未た牆に相鬩くを悛めず、米英兩國は殘存政權を支援して東亞の禍亂を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ與國を誘ひ、帝國の周邊に於て武備を増強して我に挑戰し、更に帝國の平和的通商に有らゆる妨害を與へ、遂に經濟斷交を敢てし、帝國の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に囘復せしめむとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々經濟上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈從せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亞安定に關する帝國積年の努力は悉く水泡に帰し、帝國の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る帝國は、今や自存自衛の爲、蹶然起つてー切の障礙を破碎するの外なきなり。
 皇祖皇宗の神靈上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亞永遠の平和を確立し、以て帝國の光榮を保全せむことを期す。

 天の助けを持ち、万世一系の天皇の位につく大日本帝国天皇は、まさに忠誠で勇武なるあなた方国民に示す。
 私はここに、米国および英国に対して戦争を布告する。陸海軍の将兵は全力をふるって交戦に従事し、官僚は職務を全うし、国民はそれぞれの本分を果たし、全ての国民が心を一つにし、国家の総力を挙げて戦争におもむく目的を達成するために、手落ちのないように心がけてほしい。
 そもそも、東アジアの安定を確保し、これによって世界の平和に寄与することは、おおいに輝かしい皇祖考(=明治天皇)、それを立派に受け継いだ皇考(=大正天皇)が述べられたことであり、私もそれを心に留めてきたところである。多くの国と親しく交際し、あらゆる国とともに共栄を図ることは、帝国が常に国交の重要な意義としているところである。今や、不幸にして米英両国と戦いを始めるのが避けられなくなっている。これは私が望むものではない。先に、中華民国政府は、帝国の真意を理解せず、無用に事をあらだてて東アジアの平和を撹乱し、ついに帝国と戦争を行うに至り、すでに4年を経過した。幸いなことに国民政府がこの状態を更新しようとしており、帝国はこちらと国交を結び互いに提携するようになったが、重慶に残存する政権は、米英の庇護を頼り、自国内で争うことを止めようとしない。米英両国は、残存政権を支援し、東アジアの騒乱を助長し、平和の美名の下に東洋制覇の高望みを強くしている。さらに、同盟国を誘い帝国の周辺に軍備を増強して我が国に挑戦し、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついに経済断交を行い、帝国の生存に重大な脅威を加えている。私は政府に、平和のうちに回復させようとし、じっと我慢をしていたが、かの国はほんの少しも互いに譲り合う気持ちがなく、無用に時局の解決を引き延ばして、その間にさらに経済上軍事上の脅威を増大し、我が国を屈服させようとしている。このようにして、東アジアの安定に関する帝国の長年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存続がまさに非常に危険な状態に瀕している。このような事になり、帝国は自存自衛のため、勢いよくたちあがり、一切の障害を破砕するほかにない。
 天皇歴代の祖先の御霊が我々にはついている。私は、あなた方国民の忠誠さ勇武さを信頼し、祖先の遺業を成し遂げ、速やかに災いの元を除き去り、東アジアの永遠の平和を確立し、これによって、帝国の栄光を保全することを望む。」

三笠は横須賀の三笠公園に保管されてます。
三笠の艦橋より
東郷平八郎 見て下さい、この面構え 今の日本人にいません。

中村覚少将の証言通り 皇軍は亡き敵兵に一礼

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