夜が涼しくなって夏が通り過ぎたように感じる。まだまだ日中は日差しが強いし、蝉はやかましく鳴いているが夜になると打って変わって涼しくなり鈴虫が外で鳴いている。思い返してみれば自分にとって夏はどうやら結構印象に残る季節らしい。

 去年の今頃は漸く受験の対策が始まったくらいで、あの頃は自分でも結構頑張った方。だと思う。夏休みなんて存在は自分からは程遠くて、暇さえあれば学校に行って面接の練習をしたり作文の添削をしてもらったりしていた。しかし、案外これでも「夏休み」というイベント自体は楽しんだつもりで花火もやったし、祭りの出店で法外な値段で売られている焼きそばを見てやいのやいの騒いでいた。そのくらいは楽しんだつもりだ。当時も気づいたら夏が終わっていて、儚いなぁとかぼやいていた気がする。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、自分が一年を通しても大して変わっていないことに対してある種の虚無感というか、言葉にうまく言い得ない感情に支配される。ただ、去年よりは人間として生きているような感覚は確かに存在している。たった数か月前まで動く泥沼みたいな様相を呈していた自分とは思えないほど、今は活発になっていると思う。しかも人生の夏休みといわれている大学生の(しかし教育学部の忙しさは並ではない)、夏休みが到来していて何を我慢することがあるだろう。とか思ってたら一日12時間睡眠をざらにする生活が始まってしまった。非常にまずい。

 しかし私は依然としてパソコンに向かって座っている。何かに対して熱意を燃やすことすらままならなかったころは、やっとの思いで机に座り、無理をして伸ばした腕の先でキーボードをいじって自分の思いを吐き出せるような環境を作っていたのが、今となっては机に向かうことに多少の抵抗は覚えながらもキーボードに手を伸ばすことは簡単にやりのけることができるし、ペースは遅いが一つの題に対して書き連ねることはできるようになった。成長は常々進んでいる。思いもよらないところで年をとったと感じることが多くなったけれども、成長の過程に年を取ることがマストで存在しているのであればそれは避けては通れぬ道だし、そこから避けようとすること自体が浅ましく愚かなことだと思う。そこに対して不幸は感じる。不幸は痛みだ。運命だ。そして恐怖だ。もがくほどにその不幸は時間を気にせず暴れだす。だんだんと募っていったその不幸はいずれ流行病のように伝染していく。とめどなくあふれてしまうだろう。頭のねじを外すことが案外対処方法としては効果的かもしれない。安易なことかもしれないが。

 夜の空気はきれいだし美しいから好きだ。深夜には許しの空気が流れているのでなおさら好き。何をやっても許されそうだし何を言っても大概の人間は睡眠活動に入っているので、聞いちゃいない。だから毎度のことながら文章を作る時は夜の方が捗る。
 今晩も美しく月はきらめていている。妖艶な雰囲気を醸し出しながら。バカボンのパパが言っていた「これでいいのだ」の精神では居続けられないかもしれないけれども、相変わらずこちらは「このくらいでいいか」でやらせてもらってます。
そちらはいかが?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?