晴れのち曇り
また、来た。
ひたすらに陰鬱な時期。夜に一人で泣きそうになり、どこかへ走り出したくなる。山月記に出てきた李徴のように、虎になってどこかへ走り出した方が楽なんじゃねぇかなんて思う程に今自分がいる場所は身体に合わないように感じる。だから今はひたすらにぼーっとして蛸壺のように、部屋に籠っていようと思います。
「他人と比較するな」と人は言う。理由を聞くと「他人と自分は違う人間であって、自分と他人が別の人生を歩んでいるのは当たり前のことだから。そもそも他人のことを気にかけて生活していたら疲れるよ」と、身も蓋もないことを羅列されて圧倒されてしまう。本当に比較することは間違いだろうか。私は元来、暗く底が見えない井戸のようなところで生きてきた人間なので、自分の気に入らないことは何でもかんでも否定してしまう癖がある。私は人と比較することは悪いことではなく、寧ろ自分を安定させるために必要な材料なのでは無いかと思ってしまう。あいつになんか勝てるわけない、とか、あいつよりはマシだ、というのは真っ当だろう。なぜならそうでもしないと自分の立ち位置が分からなくなるから。大学に入ってから頻繁にそういうことが起きるようになった。見渡せばスペックが高い人間ばかり。一方私はと言うと禄に努力も出来ず、かと言ってなにか秀でた才能がある訳でもないただの木偶の坊のような存在。昔父親が話している時に「すみませんねぇ、うちの息子なんにも出来なくて」と話しているところを見て、義憤を覚えた。いやいや、育てたのはあんただろうと。自分が育てた物が何であろうと、親という存在は愛し続けないと行けないのではないだろうか。あくまで自論。
持ち合わせる物が違うと、人はこうも変わってしまうのかと思うには私ほど分かりやすい存在はいないだろう。自虐的だけど。人と比較するメリットとして「自分の優位性に気づく」ということがある。というか、それこそが1番のメリットだ。他人を卑下することはもちろん外道ではあるけれど、他人と自分を比較する「だけ」ならいくらでも比較していいのでは無いだろうか。結局のところ、誰でも心の奥底では他人を見下しててそれで安心しているのだと私は思う。そうでもしていないと割に合わない。なんでもいいから私に絶対的存在のものを与えてください。
気分の転換には景色を変えることだと、最近ようやく気づいた。そしてそれは調子がいい時から悪い時、悪い時からいい時のどちらにも言い得る可能性があるということもついでに知った。しかもその機会は天気が変わるみたいに突然訪れる。自分が今見ている景色は独りよがりなもので、「自分が正しい」と思っている限りは今見ているものは変わらない。ちょっと横道に逸れてみますか、と軽い気持ちで寄り道出来るくらいの余裕が無いと現実は変わらない。横道だろうと道は道なので、いずれはどこかにたどり着く。希望だろうと絶望だろうと関係ないですよ、私は私だから。と言えるくらいには強くなりたい。ただ強いからと言って只管、自己満でやり通すのは危ない。いつの間にか側溝に落ちていてもしかしたら這い上がることも出来ないかもしれないから。楽をして生きたいから、なるべく横道には逸れたくないけれど色々なことに興味は尽きないので結局畦道を歩いているつもりが、近くの溝に落ちてもがき続けてます。
じっと手を見る。手には線が沢山あってそれぞれがとこにたどり着くのか1回で分かりはしないから面白い。もう10何年も付き合ってきた身体だけれど、よく知らないことの方が多い。すごく残念だけど、未知数なことが多い方が好きだから未知は未知で良い。
今日は久しぶりに会った友達とご飯を食べに行った。大切な思い出だけれど、当たり前のことすぎていつか忘れてしまいそうだからここに記す。
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