↓のように思ったので、電車の中でトッポを貪り喰らおうと思う!
自分という人間の問題について考えたい。それでまず思いつくのは自信がないということ。プライベートも仕事も自分なりの理想があるんだけど、それに向かってなにかアクションをしようと思ったときに、立ちはだかる課題ばかりに目がいってしまう…わけじゃなく、正確に言うと何か具体的な課題にフォーカスするというよりは、漠然とした、うまく行かないんじゃないか、という感情にただ囚われてしまう。これがいわゆる思考のクセ、というやつなんだろうと思う。
ここまで書いてきたことが事実なんであれば、俺は俺の課題を明確に認識できているということになって、あとはこれを克服していくだけ、なんだけど、ひとつは克服していこうというアクションを考えたときに、それとてアクションのひとつなわけだからやっぱり、うまく行かないんじゃないか、に囚われるわけだな。というか、うまく行かないんじゃないか、なんていう生易しいものじゃなく、うまく行かないに違いないという確信を持っている感すらあるよ。
俺はOneNoteの日記で日々振り返って、そんで自分の仕事とか、部下の方々や家族の方々に対する態度とか対応について反省したりする。そんで明日はこれこれをやるぞ!って思う。これはまさに、やるぞ!という、!な感じ·勢いで思うわけだけど、そういうエナジェティックな自分の裏側、バックグラウンドにおいて、確実にうまくいきません。と思っている自分がバリバリに活動…存在していて、反省したそばから諦めるみたいな仕儀になったりしている。反省は、反省を強いる監督者としての自分に対するポーズでしかないみたいな。まぁなにしろそうなってる。
これって言うのはつまり、課題を認識できていないわけですよね。課題を認識してそれを克服しようとする自分に対してまた同じ課題、メタ課題みたいな、が立ちはだかっていて、メタメタメタ…と課題は無限後退できてその最先端は少なくとも認識し得ないという。
みたいに概念をいじくり回すことが目下俺が抱える課題を解決してくれないことだけは確かであり、じゃあ何をすべきか、ってんで今日OneNote側で考えたことが、成功体験、というアプローチ。現実として成功体験があれば、うまく行かないという確信が多少なりとも揺らぐんじゃないかというね。それを繰り返した先に、むしろうまくいくという確信に到れる可能性だって普通にあるわけで。
その遥かなるユートピアに到達するために何をするかというと成功体験を積まないといけないんだけど、ここで出来する難題は、例えばこれから俺が家に帰るという目標を打ち立て、これを達成したところで、言うまでもなくこれが成功体験になることはない。簡単すぎるからね。
だからある程度困難な目標。家に帰る例で言っても、俺の家がチャリ15分こげば着くような場所じゃなくして、8時間チャリをこぎ、県境を4つくらいまたいでやっと道のりの半分くらい、みたいな場所にあるとすればそんな道を走破して家に着いたら自分を褒めることができるかもしれない。要は成功体験にこれは十分なりうる。
けどそれもやっぱ違うよなと思うのは、それだけ努力して得られる果実が、家への到着という純日常でしかないからで、そう思うと、到達困難なんだけどなんとかして得たいと思えるような目標。これを得られることが成功体験で、これを繰返し得ることで俺は自信満々マンになれるんじゃないかと。
とここで当然のように立ちはだかるのが例のバックグラウンド起動アプリとしてのうまく行かないという確信で、ただでさえ当該確信があるところに、まして客観的にも困難な目標をクリアしようと思った日にはそりゃ確信が超確信に変わってしまうというもの。
じゃあどうするか、というとそれでもそれを得たいんだ、無理かもしれないけどそれでも俺はやりたい。と思えるような何か。それに向かっていくということが、成功体験そしてそれを積み重ねた先の湯ーとぴあ宝としての自信満々マンとしての俺、ということであるはず。
そう考えると今の俺の真の課題は、そのように熱狂的に希求する対象としての何かが見つかっていないことであって、だとするとそれを見つけなければならない。この捜索というアクションにおいても当然、バックグラウンドアプリ、がそこにいるわけだけど、希求する対象の何か、の候補、というのは俺にとって楽しい…快いものであるはず。快いなにかなら、うまくいくとかいかないとかのバックグラウンドアプリ的テリトリーからある程度自由と言えると思え、その意味ではちょっと好きかも。と思える何かを手当たり次第にやってみてもいいのかもなとか。
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