どうしようもない奴らのシャニマスが帰ってきた。絆光記読んだよ駄文

絆光記を読みました。

いやーもう最高でした。個人的にルポライター!!あの人マジでモブ史上
一番好きまであるかもしれないです。あの人生が乗った文章といいますか、
個人の思考、思想が言葉からすごく溢れ出ていてルポライターの白紙の文書が来る度ワクワクしていました。
今回のコミュを読んで真っ先に感じたこと。プロデューサーも最後の方に言っていましたが、ありがとうを形式的に言うこと。そこに本当の気持ちはこもっているのでしょうか。怪しい勧誘の人。あの人のように話に乗ってくれそうもない人に話を持ち掛けるのはいけない、時間の無駄なのでしょうか。そして夢に破れた人。その人を哀れみの目で見るのは本当にその人に対して誠実な気持ちを持てているのでしょうか。
そういったことを思いました。もちろんありがとうを言うことや、怪しい勧誘についていかないこと、夢破れた人に辛かったねなどの言葉をかけること。とても立派な行いだと思います。ただ、困っている女性のように半ば強要されたような形でありがとうを言うことに意味はあるのでしょうか。私は正直今回はアイドル側やプロデューサー側の目線に立ってこのコミュを読むことはできませんでした。なぜなら私自身もこういったどうしようもなく面倒臭い人間だからです。
だからこそ困った女性のありがとうに対して真摯に向き合う姿勢には納得もしましたし、怪しい勧誘の人に対しても真乃の真っすぐな目をみてどうにか勧誘の誘いをした姿勢こそがその組織を一番に考えた結果なのではとも思います。夢破れたひとだって、あの人が強制的に辞めさせられる訳じゃない。
あの人が届かなかったと自身で感じたからこそのあの選択なのであり、そこに後悔というものは存在していなく、それこそ真っすぐな気持ちで頑張ったねと送り出してあげるのがめぐるにとっての最適解だった、誠実だと今でも思っています。(ごめんねめぐる、ゴリゴリに自分の思想だけどね…)
私はそこでこれは面白い展開が来るぞと思ってはいたのですが、まさか自分の期待を超える展開が訪れるとは思っていませんでした。
こういった三人のアイドルに訪れた問題の後に登場するのがルポライターです。こいつがまた素晴らしくてですね。最初から「昼の光に夜の闇の深さがわかってたまるか」「満たされた人間で、いい仕事をした作家がどれくらいいるんだよ」私はこの二言のみでルポライターの人柄に惹かれてしまいました。このルポライターはもう最初から若くはない、そんな雰囲気がただよっていましたが、まさか46歳だとは。もう私では想像もできないほど長く生きていて、正直親と同年代くらいのひとなのですが、でもその言葉にはすごく親近感がありました。それはたぶん、このルポライターが中二病をこじらせているというか、それこそコミュ内で書かれた反抗期だったからなんだと思います。それは単なる思春期に訪れる第二反抗期ではなく、大人になってその環境の変化、自身の描いていた理想とかけ離れた自分とのギャップによるストレスなどからのいわば第三反抗期なんだと私は思いました。
こどもはみな芸術家と最近よくいわれますが、それはこどもに常識といったフィルターがかかっておらず、物事に対して素直にそのままの形で向き合うことができるからだと思っていて、だからこそ友達ってなんだろうとか、優しさってなんだろうなどの答えを出すのに途方もない時間を費やすような物について考えられるのだと思います。
だけど、子供は知識が足らず、経験もそれこそ46歳のおじさんと比べれば全くと言っていいほどありません。見ている世界の大きさが全然違います。
現地の女子3はこれなんだと私は思います。
知識が狭く、見ている世界が狭く、めぐるを別世界の住人と感じ、自分とは何もかも違って、めぐるの人生がすべて上手くいっていると信じ込んでいる。そんな相手が自信をもちながら提案してきた競争という種目において
勝利を収め、めぐるの一瞬見せたゆがんだ表情。いやめぐるはぽかんとしていたと思いますが、その優越感とともにめぐるが現地の女子3の立っていた世界へと落ちてきたんだと私は感じました。
私たちのようなどうしようもない人間は相手が完璧であるように見えれば見えるほど欠点を探すことを諦め、だってあの人だからなどといった言い訳を並べるようになります。でもだからこそ少しその光に陰りを見せることで私たちは同族と認識し、眩すぎた太陽を少しずつ眺めることができるようになると思うのです。
ですがルポライターのおじさんはそうはいきません。なぜならおじさんは広く世界を見たうえで、常識というものが確立されたうえで、反抗期を迎えています。文学の基本構成として子供の目を通した疑問があり、そこに大人の愚かさがありそこからあらたな知見を得る。といったものがあると聞いたことがあります。
(たしかウィリアム・エンプソンだったかな?無知ですみません)
46歳のプロのライターとなればそういったものを好まないことは無いと思います。この子供でもあり、大人でもある。歪すぎる状態だからこそ第三反抗期がこのおじさんに訪れてしまったと私は思います。
ですがおじさんもインタビューや試写会でイルミネという圧倒的な光からなにか得るものがあったのだと思います。それは言葉を探して頭をグングン動かしているアイドルの姿かもしれませんし、それとも試写会の後、一般人たちの映画批評コメントがたくさん溢れ出たとき。そのコメントを読んだことで凝り固まった考えを自覚してしまったのかもしれません。(なんか全然ルポライターへの意見定まってなくてごめん)
私はあの映画に関してはあまり批判を受けすぎるものでは無いと思っています。もちろん見たわけではないのでなんとも言えませんが、リメイクといった言葉が単に悪さをしてしまっただけだと感じます。映画ファンにとってはリメイクと聞き、あの映画が美麗な画質で、色がついて、しっかりと派生進化したものが見れると思っていたのかもしれません。ですが実際はそんな派生進化などではなく。それを進化素材とした全く違う作品でした。だからこそ知っていて期待していた人は落胆する出来になったでしょうし、作品を知らず、リメイクという言葉にとらわれすぎない状態で見ることができた人はすっきりと楽しめるものになっていたんだと思います。
私はここでこのコミュでの題材である光と闇というのはロマンティズムとリアリズムなのではないのかと思いました。
リアリズムにとらわれた人間はリアリズムの言葉でしか救われない。批評コメントの人たちも本当にイルミネの映画の感想が聞きたかったわけではなく、イルミネにあの映画を酷評してほしかったんだと思います。
ですが、人間はそこまで単純なものではない。その両方の性質を持ち合わせているのが正常なことだと思います。だからこそめぐるは現地の女子3と仲良くすることができたし、イルミネが永遠でないことも知っているし、あの女の子に言葉をかけてあげられなかったんだと思います。
私はこのイルミネコミュでありがちなクッソ難しい話題をぶつけてくるのが大好きです。今回のお話も結局のところは言葉だけでは人を完全に判断するということは難しいといった結論になっていたと感じますし、そこの判断ができるようになるのはどれだけかかるのか、まずその域までいけるのかということすらわかりません。ですがイルミネは前を向いてその判断や困っている人、困っていない人にかける言葉を探して歩いていきます。
ルポライターのおじさんに刺さったところもおそらくここなんだと思いますが、正直ピンとはきてません。それは自分自身がまだ光を直視できるくらいまで達していないからなのかもしれません。だってこんなめんどくさいコミュを待ち遠しいとまっていためんどくさい人間だから。でもシャニマスは私のような人間すらも掬い取ってくれます。暗闇にちいさな朝日のような光を差し込んでくれます。だから私はシャニマスが好き。なんかめっちゃたらたらと書きましたがこれが言いたかっただけです。
こんな感情を垂れ流した、それにすら至っていないかもしれませんが、こんな駄文を読んでくれた方がいればありがとうございます。
ルポライターがまたイルミネと喧嘩する日を私はいつまでも待ちたいと思います。

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