天使の想い
「神様、どうかロミオをお守りください」
アンジェレッタは一心に祈りを捧げつづけた。
胸騒ぎがした。薄明りの差す夜明けとともにロミオは家を出ていった。まだ日の出までには時間があった。何のためにこんな朝早く出ていったのか、アンジェレッタには分からなかったが、ただ、ロミオが何か重大な決意を胸に抱き、勇気を奮い立たせようとしていたことは、充分感じていた。そして同時に、アンジェレッタはロミオが心の奥底で何かに怯え、不安を覚えていることも察していた。ロミオが勇気を起こそうと努めているのは、この怯えと不安を打ち払い、克服しようとしてのことだとアンジェレッタは見通していたのだった。
アンジェレッタは未明からずっと眠らずにいたにも関わらず、横になりもせずに、祈り続けた。アンジェレッタは祈ることしかできなかったが、その祈りは、不純なものが一切混じらない、心の底の真心からの祈りだった。そして、アンジェレッタは神を信じ切っていた。それも、自分が祈ればきっと必ず神様が願いを叶えてくれる、という意味で信じていたのではなく、曇りのない心を持ったロミオを神様が守ってくれないはずはない、というように信じていたのだった。
それでもアンジェレッタは祈らずにはいられなかった。ロミオの為に何かをせずにはいられないアンジェレッタだった。
数時間が過ぎた。
突然、エッダの怒鳴り声が耳に入ってきて、アンジェレッタは思わず目をつむった。
「いったい、どこで何やらかしたんだい、そのていたらくは! 大方、不良どもと喧嘩でもしたんだろ! ふんっ、このやくざ者が! その破れたシャツの代わりは自分で稼いで買うんだね! まったく、いったいお前を買うのにいくらしたと思ってんだい! 毎日の食事にだって金がかかっているんだよ! これ以上、お前にかける金なんざ、びた一文ありゃしないんだから、そのつもりでいな!」
その後にはっきりしてはいるが力のないロミオの声が続いた。
「すみません、おかみさん。どうしてもセンピオーネ公園まで行って、友達を助けなくっちゃいけなかったんです。シャツは自分で何とかします」
アンジェレッタは心臓の鼓動が早くなるのも構わずに、急いで部屋を出た。おかみがロミオをこっぴどく叱るのは堪えがたかったのである。
「言い訳なんて聞きたかないね。お前のような穀潰しにやるもんといえば、これくらいなもんさ!」
エッダが右手を振りかざしてロミオを平手打ちにしようとしたその時、「お母さん!」という小さいながらも鋭い、半ば悲鳴に近いような声が響き、エッダの右手の動きを封じた。
「アンジェレッタ!」
ロミオとエッダは同時に声を上げた。
「お母さん、お願い。ロミオをぶたないで。ロミオのことよ。きっと何か深い訳があったに違いないわ。それでもロミオを叱るなら、私も一緒に叱って。私、夜明けにロミオが出ていくのを止めなかったんだもの」
アンジェレッタは悲しそうな翳を帯びた表情と声でエッダに哀願した。エッダは右手を下ろした。
「おお、アンジェレッタや。なんて優しい子なんだろう。このろくでなしに同情するなんて。でも、気にするこたないんだよ。ロミオはちゃんとお金を支払って買ってきた代物なんだから。もっと沢山稼がせなくっちゃ大赤字ってことになっちまう。なのに、更にお金をかけなくちゃならないなんて割の合わない話なんだよ。さあ、もう部屋にお戻り。体に障るからね」
エッダはアンジェレッタの肩をつかむと、アンジェレッタの体を軽く逆方向に回転させた。そしてロミオに向かって急に怖い表情をつくって、乱暴な言葉を吐いた。
「ロミオ、あんまりこの子に関わるんじゃないよ! 今度同じようなことがあったら、その時こそ承知しないんだからね! さあ、早く掃除を始めな!」
エッダはそのまま、アンジェレッタを部屋に連れ戻そうとした。しかし、アンジェレッタはなお、顔をロミオの方に向け、「待って、お母さん」とエッダに言って立ち止まらせた。
「ロミオ、顔に痣ができているわ。手当てしてあげなくっちゃ。それにとっても疲れているみたい」
アンジェレッタがそう言うと、エッダは再びロミオの顔を見て、不機嫌そうな表情を浮かべた。
「アンジェレッタや。こんな穀潰しの心配なんかする必要はないんだよ。なに、あのくらいの痣なんか放っておいても直に治るさ」
「でも、とても痛そうだし、きつそうよ。お願い、お母さん。私にロミオの手当てをさせて」
「本当に優しい子だね。でもうちにはあんなろくでなしの手当てをするための薬なんてありゃしないんだよ」
「前にお兄ちゃんが痣だらけになった時に使ったお薬の残りがあるはずだわ。ね、お母さん、使ってもいいでしょ」
「あれはロミオなんかに使うものなんかじゃ……」
エッダがそう言いかけた時、突然横からアンジェレッタのでもロミオのでもない緩慢な声がして、エッダの言葉を遮った。
「なんだなんだ、朝っぱらから騒々しい。何をロミオに使うものじゃないというんだ?」
声の主はロッシ親方だった。寝起きらしく、おさまりの悪いもじゃもじゃの後頭部の髪が、一層乱れている。
「聞いとくれよ、あんた。ロミオの穀潰しが不良どもと喧嘩でもしたのか、シャツを破いちまったんだよ。あんたからもロミオをきつく叱っておくれ」
エッダがそう言い終わらないうちに、アンジェレッタは親方に口を開いて頼み込んだ。
「お父さん、どうかロミオを叱らないで! ロミオが好んでシャツを破いたり、痣をつくったりするようなことをしたなんて考えられないわ。だからお願い、ロミオを叱らないで! そして私にロミオの手当てをさせて!」
アンジェレッタの願いを聞くと、ロッシ親方は、顔に殴られたような痕があって、見るからに倒れそうなのを我慢し、肩で息をしながら辛うじて気力で立っているロミオをしげしげと眺めた。そして、ロミオに向かって言った。
「しょうがねえな。その体じゃ今日は仕事になりそうもねえ。今日のところは体を癒すのに専念するんだな」
ロッシ親方の言葉に、アンジェレッタは喜びの表情を浮かべ、「お父さん、ありがとう」と言って感謝した。対照的にエッダは怒った顔になった。
「体を癒すのに専念、って、あんた、この穀潰しにまた休みをやるつもりかい! この穀潰しが八十五リラもしたことをあたしゃ忘れちゃいないよ! 休みを与えるなんて、いったい何のために金を払ったつもりなんだい! これじゃまるで損をするために金を使っちまったようなもんじゃないさ。あたしゃ承知しないからね!」
エッダは顔を真っ赤にして早口で親方にまくしたてた。親方はエッダの勢いに押され、参ったような顔をした。それを見かねたロミオは、エッダと親方に向かって努めて平静を装い、口を開いた。
「親方、おかみさん。仕事なら大丈夫です。今すぐにだって煙突掃除できるよ」
すると、間髪を入れず、アンジェレッタが口をはさんだ。
「ダメよ、ロミオ。無理をしちゃいけないわ。お願いだから、今日は家にいて。お父さんも、お母さんもお願いだから、ロミオを休ませてあげて。ね、いいでしょ」
アンジェレッタの訴えるような言葉に、さすがのエッダも困ったような顔をして黙ってしまった。親方はエッダの重圧から解放されて、ほっと一息つくとロミオに言った。
「あまりそうやせ我慢するな、ロミオ。辛い時は辛いと言ってもいいんだぞ。俺はお前の身に何が起こったのか詳しく詮索しようとは思わねえ。男じゃないか。喧嘩の一つや二つするぐらい元気がなくっちゃな。だが喧嘩ばかりして仕事に差し支えるようなことが続くと困るぞ。言いたいことはそれだけだ。さあ、飯だ、飯!」
「親方……」
ロミオは親方の温情に瞳を潤ませた。
アンジェレッタも親方の言葉を聞いて喜んだ。そして、すぐにロミオに歩みよった。
「さあ、ロミオ。早く手当てをしましょう。こっちに来て」
ロミオとアンジェレッタが行ってしまうのを、エッダは苦々しい顔で見送ると、不機嫌な様子で朝食の準備をはじめた。
この結末を不愉快に思っていたのはエッダ一人ではなかった。壁際の陰から事の成り行きを窺っていたアンゼルモは面白くなさそうな顔をして、そこから出て、ロミオ達とすれ違った。
「あーあ。せっかくロミオが横っ面をひっぱたかれるのを見られると思ったのに。つまんないの。父さんもアンジェレッタも余計なことを」
アンゼルモはロミオに聞こえよがしにそうつぶやいた。この言葉が耳に達すると、ロミオは「なんだって! アンゼルモ!」とアンゼルモの方に向き直って怒りをあらわにしたが、すぐにそれ以上の怒りを抑えた。アンジェレッタがアンゼルモの方へ向かって行こうとするロミオの破れたシャツを引っ張り、「ロミオ……」と言って、悲しそうな顔を小さく左右に振ったからである。ロミオはアンジェレッタの想いを汲み取り、歩みを止めて、アンゼルモに背を向けた。
それにしても――アンジェレッタはアンゼルモのことを考えるといつも悲しく、憂鬱になるのだった。昔は優しいお兄ちゃんだったのに、いつ頃からか、他人がひどい目にあうことを喜んだり、誰かの陰口を言うことを好んだり、意地悪をしたりすることを面白がるようになってしまった、とアンジェレッタには感じられていた。それでもアンジェレッタは、アンゼルモの中に昔の優しいお兄ちゃんが眠っていることを強く信じていた。アンゼルモはただ素直になれないだけで、照れ臭さや気恥ずかしさを隠すために同情すべき他人の不幸を笑ってみたり、プライドを守るために他人を見下し蔑んでみたり、力がないのを認めたくないために弱い立場にいる他人に意地悪をしてみたりするのだろう。そうアンジェレッタは見ていたが、どうすればアンゼルモが善良な心を取り戻せるのか、具体的には分からなかった。アンジェレッタは時々自分が無力であることを痛感したが、まさにそれ故にその都度、神に祈らずにはいられなかった。
「神様、どうかアンゼルモの心をお救いください」と。
「痛っ!」
ロミオはアンジェレッタに薬を塗ってもらうと、思わず声を上げた。
「少しの辛抱よ、ロミオ。ちょっと沁みるかもしれないけれど、このお薬はよく効くから。さあ、もう片方の頬も」
アンジェレッタはくすくす笑いながらそう言った。
「アンジェレッタもひどいなあ。痛がっているのを見て笑うなんて」
ロミオはちょっとふくれっ面をしてみせた。しかし、実のところアンジェレッタが笑っているおかげで、ロミオは随分痛みが緩和されたように感じているようだった。ふくれっ面をしてみせる余裕があったのがその証拠である。やがてロミオも何だか可笑しくなってきたのか、アンジェレッタと一緒にくすくすと笑った。
「さあ、これでいいわ。あとはシャツをどうするかね」
治療を終えるとアンジェレッタはちょっと思案顔になった。そこへ、親方がノックして部屋に入ってきた。
「ロミオ、その破けたシャツの替わりなんだが……」
親方はグレーのシャツを二着、手に持っていた。
「しばらくはこの二着のシャツで間に合わせたらどうかと思ってな。アンゼルモが着古したものなんだが」
そのシャツはロミオの破けたシャツによく似ていた。
「親方、もらってもいいの? いくら古着だからといってもおかみさんやアンゼルモが許さないと思うんだけど」
すると親方はいたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。
「なーに、気にするな。どうせもう着やしないんだし、もともと俺の金で買ったものだしな。エッダやアンゼルモに何か文句を言われたら、俺の名前を出したらいい。誰のおかげで生活できているのか、あいつらに思い知らせてやるさ。そしたらもうあいつらもお前に意地の悪い振る舞いなんかできなくなるだろうよ」
親方はウィンクして二着のシャツをロミオの手に渡すと、愉快そうに鼻歌を歌いながら部屋から出ていった。
ロミオとアンジェレッタは顔を見合わせたが、すぐにどちらからともなく、また笑いだした。
「あははは。あんなに楽しそうな親方、僕初めて見たよ」
「私もあんなお父さんを見るの、本当に久しぶりよ」
二人はちょっとの間笑っていたが、不意にロミオが、「そうだ!」と声を発した。
「どうしたの、ロミオ?」
アンジェレッタが尋ねると、ロミオはズボンのポケットから狼団との決闘のためセンピオーネ公園へ向かう直前にアンジェレッタにもらったばかりの十字架のペンダントを取り出した。
「これ、アンジェレッタに預かっておいて欲しいんだ」
「えっ?」
アンジェレッタは怪訝そうな顔をした。ロミオは先を続けた。
「あ、別に要らないって言っているんじゃないよ。大切な物だからこそアンジェレッタに持っていてもらいたいんだ。実際、今こうして無事に帰って来られたのは、きっとこのお守りのおかげだと僕は思っている。今朝は本当に危ない所だったんだ。このお守りには不思議な力があるに違いないよ。でも、これを僕が持っていたら、多分おかみさんかアンゼルモに取り上げられてしまう。そこで僕は考えたんだ。アンジェレッタに預けていればその心配はしなくていいって。それに……」
「それに?」
アンジェレッタの表情から既に怪訝そうな様子は消えていたが、ロミオがこの上何を言いだすのか分からなかったため、その顔にはまだ何かを問いたげな感じが残っていた。
ロミオは一呼吸置いてアンジェレッタに続きを言った。
「こんなによく効く不思議なお守りなんだもの。このお守りを持っていたら、アンジェレッタの病気も多分、いや、きっと治るよ。根拠はないんだけれど、そんな気が強くする。だから、アンジェレッタにこそこれを持っていて欲しいんだ」
「ロミオ……」
ロミオの心のこもった言葉に、アンジェレッタは強く心を動かされた。アンジェレッタは誰かに思いやられたいと望んだり、神に祈ったりしたことは一度もなかった。ただいつも自分以外の誰かのことを祈ったり想ったりするばかりだったのである。この時、アンジェレッタは期せずしてロミオが自分に向ける深い思いやりに接する幸福を改めて感じたのだった。
「ありがとう、ロミオ。私、とっても嬉しい……」
アンジェレッタはそう言うのが精一杯で、それ以上言葉を繋げることができなかった。ただ、ロミオからペンダントを受け取ると、それを大事に両手でつかみ、胸に抱いた。それがアンジェレッタにできる最高の感謝の気持ちの表現だった。ロミオはそれを見ると照れ臭そうに笑った。そんなロミオをアンジェレッタはますます好きになるのだった。