誇り高き狼
アルフレドが亡くなってちょうど一年が過ぎた。
その日はよく晴れた小春日和だった。その昼下がり、アルフレドの墓の十字架の前に一人の少女が立ち尽くしていた。少年の恰好をしたその姿は、男装の麗人の趣があった。ニキータだった。ニキータは、アルフレドに語りかけるように呟いた。
「あれから一年経ったな、アルフレド。この一年、あたしはお前のことを忘れたことは一度もなかった。そして、お前はずっとあたしを見守ってくれていた。あたしのやることなすこと全てをみんな見ていてくれた。そんな気が凄くする。そうなんだろ、アルフレド。お前、優しいからな。だからこの一年、あたしは辛くても悲しくてもなんとかやってこれたんだと思う。お前に見守られているって思うだけで、涙も流さずに済んだ。不思議だな。お前のことを思う度に、自然に勇気が湧いてくるし、穏やかな気持ちになる……」
ニキータは目を閉じた。そうすることで、アルフレドの面影をまぶたの裏に思い浮かべているようだった。
ちょうどその時、そこに一人の男が姿を現し、ニキータに近づいてきた。
「ニキータ。やっぱりお前もここに来ていたか……。そうだよな。今日はお前にとってもオレにとっても特別な日だからな」
声の主はジョバンニだった。ニキータは振り向かずに言葉だけを返した。
「ジョバンニ。今日は、お前もきっとここに来るって思っていた。アルフレドに、二人といないお前の最高のライバルに会いに来るって」
そう言ったきり、二人は黙りこくってしまった。
この沈黙の間、ジョバンニは地面に目を落とし、心の中で密かに呟いた。
(アルフレド。てめぇはオレが勝つことができなかった、ただ一人の男だ。これまでも、そしてこれからも。それは認めてやる。だがな、てめぇがニキータの英雄になったのなら、オレはてめぇを超えた英雄になって、ニキータの中のてめぇに勝ってやる)
ジョバンニはそう静かに力を込めて心に決めた。それから一歩進んでニキータと並び、ニキータの横顔をじっと見つめた。ニキータの顔は日増しに美しくなってきているようにジョバンニには感じられていた。しかし、ジョバンニはそう思うごとに、自分が何か変なことを意識しているような気がして、それは自分の柄じゃない、と打ち消すのだった。
「……ん? どうしたんだ、ジョバンニ? あたしの顔に何か付いているか?」
ニキータの言葉に、ジョバンニはハッとして、我に返った。そして努めてクールな自分を取り戻すとこう言った。
「ふっ……。いや、なに、ちょっと思うところがあったのさ。お前の中にはあれからもうずっとあいつが住みついちまっているんだな。そう顔に書いてあるぜ」
するとニキータは、ムキになって否定するだろうと思ったジョバンニの予想に反して、照れ臭そうに微笑してみせた。
「ふふ。字は読めないくせに、顔は読めるんだな」
ジョバンニはニヤッとした。
「当たり前だ。お前とはガキの頃からの長い付き合いだからな。それぐらいは分かるさ。それに、今日ここにお前が来ているということは、お前があいつに心を奪われたままでいることの何よりの証拠だ。そうだろ、ニキータ」
ニキータはジョバンニの言葉を聞くと、また十字架の方に顔を向けて言った。
「ジョバンニ。それを言うなら、お前だってそうだ」
「ふっ、違いねぇ。オレもあいつのことが片時も頭から離れねぇんだ」
ジョバンニはニキータから視線を外すと小さく苦笑した。ニキータは言葉を続けた。
「ジョバンニ。お前だから言うが、あたしは、どんな奴であろうと、もうあいつ以外の男を受け容れられそうにない。
分かってる。あいつはあたしのことを何とも思っていなかったことくらい。
でもあいつにはもうあたししか想いを寄せる女はいない。ここであいつのことを想うのをやめちまうなんてことは、あたしにはできやしないんだ。
だってそれじゃあ、あいつがあまりにも可哀想じゃないか。
せめてあたしくらいは女としてあいつを想い続けたい。あたしが他の誰かに心を許すと、あいつの存在がかすんじまうような気がする。だからあいつが消えてしまわないために、あたしの心の中にあいつだけの居場所を作っておきたいんだ。
おかしいだろ。今更もうどこにもいない奴を心の中で生きていることにしようだなんて屁理屈をこねて。笑ってくれ、ジョバンニ」
ニキータのどこか放心しているかのような調子の言葉を聞いて、ジョバンニは笑わなかった。それどころか眉を寄せ険しい顔つきになって、睨みつけるかのようにアルフレドの十字架に目を向けた。
(アルフレド。てめぇならこんな時、ニキータに何て声をかけてやる? 何とか言いやがれ!)
一瞬、ジョバンニは、居るはずもないアルフレドに向かって、心の中で半ば叫ぶように感情をぶつけた。しかし、すぐに思い直した。
(いや。ダメだ。オレはあいつとは違う。あいつにできないこと、オレにしかできねぇことをニキータにしてやらなきゃならねぇ。そうでないと、オレは今度こそあいつに負けたことになっちまう)
そんなことを心の中で思っていると、ジョバンニは、次第に自分の無力さが腹立たしくなってきた。
(ダメだ。いくら腕っぷしが強かろうが、こいつの、ニキータの中のあいつにすら勝てやしねぇじゃねぇか。この際、腕力は全く役に立たねぇ。くそっ、オレは腕力だけしか能がねぇ男なのか? オレにはあいつみたいな器量がねぇってことなのか? アルフレド。てめぇはどこまでオレの誇りを傷つけやがるんだ)
ジョバンニは、下げたままの二つの拳を握りしめた。誰かを殴りたい衝動に駆られたジョバンニだったが、そこに殴りつけるべき相手はいなかった。ジョバンニはその衝動を抑えるしかなかった。
二人しかいないはずのその場所に、第三者の声がしたのは、この時のことだった。
「あっ! ジョバンニにニキータ! 来てくれていたのね!」
二人が声のした方向に目をやると、そこには金髪のショートヘアの活発そうな少女が笑顔で立っていた。
「ビアンカ!」
ニキータがその名を口にすると、
「ビアンカ嬢か……」
と、ジョバンニも、呟くように言った。
「二人ともちゃんと覚えていてくれたのね。今日という日を」
ビアンカはそう言うと、ニキータの右横に並んで立ち、アルフレドの十字架に白い顔を向け、その両目を潤ませた。
そのすぐ後だった。ジョバンニは二人の少女以外の人の気配を感じて、その方へ視線をやった。するとジョバンニの目は、そこに立派なヒゲを蓄えた温厚そうな中年の紳士の礼服姿を認めた。ジョバンニが誰何しようとしたその一瞬前、その紳士は自らジョバンニに向かって言葉を発した。
「やあ、君と会うのはいつ以来になるかな、ジョバンニ。君はもう私のことを忘れているかもしれないが」
ジョバンニは、自分の名前を知るこの謎の紳士を不審に思い、殆ど無意識のうちに反射的に身構えた。喧嘩に明け暮れた体が自然とそのように動いたのである。
「おっさん、誰だ? 何でオレの名前を知っていやがる?」
やや声を荒らげながらジョバンニが言うと、ビアンカが慌てて横から口を挟んだ。
「ジョバンニ! なんて口の利き方をするの! この方はお医者様で大学教授のカセラ先生よ!」
「ふんっ、それがどうした。何の用でここまで来やがった?」
ジョバンニは紳士の肩書きを知らされても、全く動じなかった。
実際、ジョバンニは、たとえ目の前の人物が国王や法王であると言われても、ひざまずくどころか言葉や態度を改めたりするつもりすら毛頭なかった。
ジョバンニが表立って敬意を認めた対象は、この時までただ一人、アルフレドしかおらず、彼がいなくなった今、ジョバンニが対等に接する相手は、ジョバンニ自身が知る限り、この世のどこにもいなかったのである。
ビアンカは更に言葉をジョバンニに浴びせた。
「あなたは、お兄ちゃんのお葬式の時と、故郷に帰るロミオたちを見送った時に、先生と顔を合わせているはずよ! 忘れちゃったの、ジョバンニ? ニキータも黙っていないで何か言ってちょうだいよ!」
ビアンカは殆どムキになりかかっていた。しかし、カセラ教授はそんなビアンカを制して、言葉を発した。
「ジョバンニ。君のことはビアンカからよく聞いているよ。とても勇敢で、誇り高い心を持った少年だと」
ジョバンニはこれを聞くと、こめかみをピクリとさせ、目をカッと見開き、怒鳴った。
「おい、おっさん! 今、オレのことを『少年』と言いやがったな! オレはもう一人前の男だ。ガキ扱いするんじゃねぇ!」
カセラ教授はちょっと驚いた顔をしたが、すぐに元の穏やかな表情に戻り、微笑さえ浮かべてみせた。
「これはすまなかった。許してくれ」
ジョバンニはカセラ教授が謝るのを聞くと、かえって目をつり上げて憤怒の形相をしてみせた。
「おっさん! あんたは医者だって話だな。そうだった、今思い出したぜ。おい! どうしてあいつの、アルフレドの病気を治してやらなかったんだ! どうせあいつが金を持たなかったから、診てやらなかったんだろ! どいつもこいつも医者ってのは、高い金をせびりやがる上に、肝心な時になるとまるで役に立ちやしねぇ。あいつは、病気が治ったら、オレと勝負して、オレにひざまずくはずだったんだぞ!」
ジョバンニがカセラ教授に向かい拳を握りしめるのを見て、ニキータはその前に立ちはだかった。
「やめろ! ジョバンニ! 気持ちは分かるが、抑えるんだ。医者だって全能じゃない。それに医者を殴ってあいつが生き返るんなら、あたしがとっくに殴っているさ」
ニキータがそう言うと、ビアンカが言葉を続けた。
「ニキータの言う通りよ、ジョバンニ! それにカセラ先生は充分過ぎるほど力を尽くして下さったわ。半リラも受け取らずに。いけないのはわたしよ。わたしがお兄ちゃんを説得して、晩餐会に乗り込んだりさせずに、あのままカセラ先生のお家に一緒に留まっていれば、お兄ちゃんは死んだりせずにすんだのよ!」
言いながら、ビアンカは目に涙を湛えていた。ジョバンニは、それを見かねて、表情を曇らせ、再び地面に目を落としつつ、口を開いた。
「ビアンカ嬢。そう自分を責めるな。あの時、晩餐会に乗り込まなかったら、あいつとあんたの名誉を取り戻す機会は永遠に失われていたかもしれねぇんだ。それに……」
「名誉なんて、そんなの要らないわ! お兄ちゃんの、アルフレドの命さえ無事だったなら……」
ビアンカの頬に涙がつたった。地面から視線を上げたジョバンニはそれを横目で見て、バツが悪そうに心の中で舌打ちした。そして、あの日晩餐会に乗り込んで名誉を回復しなければ、いずれは二人とも捕まって殺されていただろう、という推測を口にするのを控えて飲み込んだ。それがビアンカにとって何の慰めにもならないことをジョバンニは悟ったからである。
一方、ニキータはカセラ教授に向かって言った。
「教授。ジョバンニは、さっきから虫の居所が悪くて、何かに無性に苛立っているみたいなんだ。許してやってくれ」
カセラ教授はニキータの言葉に対し、何か答えようとしたが、ジョバンニがそれを遮った。
「ニキータ! お前、オレに断りもなく、なに勝手なことを抜かしやがる! 教授だか医者だか知らねぇが、オレはこのおっさんに許しを乞わないといけねぇことは何もしていねぇぞ!
おい、おっさん! あんたは偽善者だ! 善人面していても無駄だぜ! この町の裕福な人間なら煙突掃除を依頼したことのない奴はいねぇはずだ。オレはそんなあんたを、そしてあいつの病気ひとつ治せなかったあんたを許しゃしねぇんだからな」
カセラ教授はジョバンニの言葉に反論しなかった。それどころか苦い微笑みでこれに応じた。
「これは聞きしに勝る手厳しさだ。だが、言い訳はするまい。確かに私はこれまで特に意識することもなく、何度も子供に煙突掃除をさせてしまったし、アルフレドの病気を治してあげることもできなかったのだから。
私のような一介の医者の力では、アルフレドのような不幸な子供たちの身に起こった悲劇をどうしてやることもできなかった。今でもそうだ。それは認めざるを得ない。医者一人の力なんて知れたものだと痛感させられる。
煙突掃除に限らず過酷な労働に従事させる為に子供が売買されるようなことがなくなり、子供を保護する仕組みができない限り、同じような悲劇は繰り返されるだろう」
そう言うと、カセラ教授は静かに前に進み、アルフレドの十字架の前で手を組み合わせた。それを見るとビアンカも涙を拭って同じように手を組み合わせた。二人ともそれぞれ心の中でアルフレドに語りかけているようだった。
ニキータはその光景を背にするように振り返り、仏頂面をしているジョバンニの方へ顔を向けた。
「おい、ジョバンニ。もうそんな顔するなよ」
ニキータに言われた側のジョバンニは、苛々した様子のまま言葉を返した。
「ニキータ。お前は狼団にとって欠かせねぇ存在だ。だが、そんなお前であっても、今のオレの気持ちは分かりやしねぇよ」
そう言うと、ジョバンニはアルフレドの墓に背を向けて歩き出した。
「ジョバンニ、もう行くのか?」
ニキータはジョバンニの背中に向かって声をかけた。ジョバンニは、それを耳にすると、足を止めた。
「ああ。これ以上あいつの墓の前にいても仕方ねぇからな。あいつの前で泣き言や恨み言を並べたりするのはオレの趣味じゃねぇ」
振り向かずにそう言い残すとジョバンニは再び歩き出そうとした。しかしその直前、ジョバンニはまたニキータの言葉に呼び止められた。
「待てよ、ジョバンニ! 確かにあいつの墓の前で泣き言や恨み言を口に出すのは、お前の柄じゃない。だけどあたしには分かる。お前は誰よりもあいつに自分のことを認めさせたいんだと。そのためにここに来たようなものなんだろ」
ジョバンニは内心ギクリとした。ニキータに、自分でも確かな形では把握できていなかった漠然としたアルフレドへの思いを見通され、痛いところを突かれたような気がしたのだった。
(チッ、ニキータの言う通りだ。
今こそはっきり分かった。オレはあいつにオレのことを認めさせたかったんだと。そもそも、あいつに勝ってひざまずかせることがオレのやりたいことだったはずだ。今思えば、オレは、そうすることで、あいつにオレを認めさせることができると考えていたような気がする。
だが、実際はどうだ? あべこべにオレの方があいつを認めてやっているじゃねぇか)
そう思った時、突然、アルフレドの親友、ロミオが言った言葉がジョバンニの頭の中に響いた。
――確かにお前は強いかもしれない。でも、力で仲間を思い通りにしているだけだ。アルフレドは違う。アルフレドといるだけで、みんなの胸の中に勇気が湧いてくるんだ。本当に強いのはアルフレドだ――
ジョバンニはため息をついた。
(くそっ! これがオレとあいつの差だということなのか? オレはあいつに嫉妬していたとでもいうのか?)
しかし、ジョバンニはすぐこれを否定した。
(いや、違う。断じて違う。そうだ。オレはあいつに嫉妬するようなチャチな男じゃねぇ。オレはあいつを羨んだことなんか一度もありやしねぇんだからな)
そんなことを考えていると、今度はアルフレドの声がジョバンニの脳裏をよぎった。
――君と僕は似ているのかもしれないな。僕にもっと時間が残っていれば、友だちになれたかもしれない――
ジョバンニはハッとした。自分が無意識のうちに欲していた何かに気付いたのだった。
(そうか。そういうことだったのか。あいつは、このオレのことを認めた上に、そこまで想っていやがったのか。だとしたら、オレは何て奴を亡くしちまったんだ!)
またニキータが声をかけてきた。
「ジョバンニ、お前さっきからどうしちまったんだよ? 立ち止まったかと思うと、こっちに振り向きもせずに黙ったままで。何か言いたいことがあるんなら、言ってみろよ」
ジョバンニは振り向かないまま、声だけを発した。
「……ニキータ。オレは何とかしてあいつをひざまずかせようとした。だが、実際あいつがひざまずいたとしたら、オレは大いに失望しただろうな」
ジョバンニの言葉を聞くとニキータは言った。
「何を言いだすかと思えば、今更そんなことを言うのか。でもまあ、その気持ち、分からないでもない。張り合える奴がいなくなると、毎日が退屈でつまらなくなるよな。それを思えばあいつがいた頃のお前は、もっと生き生きしていた」
するとジョバンニは頭を左右に振った。
「いや、違う。そういうことじゃねぇ。オレはあいつがいなくなるのと一緒に何かかけがえのねぇものを失くしちまったような気がしてならねぇんだ。今の今まで全く気付かねぇでいたけどな」
ジョバンニは珍しくうなだれていた。これまでのジョバンニにとって、周りの人間は従わせる対象でしかなかった。つまり、ジョバンニは誰であっても上下の関係でしか対人関係を考えたことがなかったのである。
しかし、ジョバンニはアルフレドを遂に見下すことができなかった。その意味でアルフレドは、最初の例外と言ってもよかった。ジョバンニにとってアルフレドは、初めて自分と対等な関係として認めるに足りる存在になっていたのだった。
「友だち、か……」
ポツリと、ジョバンニは声を漏らした。それはジョバンニが無意識のうちに得ようとして得られなかったものだった。
ジョバンニは、それまでは孤高であることを誇りにしていて、むしろ友情というものを甘っちょろいものだと軽蔑さえしていたが、それは羨望の裏返しで、本当の尊い友情というものを自分が欲していることを、それを初めて教えてくれた存在を亡くして一年経って、ようやく思い知らされたのだった。
「何だって? 今、友だち、って言ったか? ジョバンニ?」
ニキータの声が耳に入り、ジョバンニは我に返った。すると、今度は妙に照れ臭い気持ちになった。ジョバンニはニキータに向かってぶっきらぼうに言い放った。
「何でもねぇよ」
ジョバンニは多少ムキになりかけていた。ニキータはそれを察した様子だったが、それにも関わらず、敢えてジョバンニに言った。
「何も恥ずかしがったり、照れ隠しをしたりする必要はないぞ。まあ、あたしだってあいつへの感情を認めるのに時間がかかりはした。でももう今は、それを恥ずかしいことだとは思っていない。あいつはそれだけあたしの心を惹きつけるに足りる魅力を持っていたってことさ。
お前だって人のことを言えやしないはずだ。あいつのことが頭から離れないんだろ。そう意地を張らずに、あいつのことを友だちとして素直に受け容れてやれよ」
言い終わると、ニキータは後ろを振り向いた。ちょうど、ビアンカとカセラ教授が帰ろうとするところだった。
「ジョバンニ、ニキータ。今日は、二人とも来てくれてありがとう! 嬉しかった。泣いちゃったのは恥ずかしかったけれども。これからもお兄ちゃんのこと、忘れないでいてね!」
ビアンカがやや離れたところから二人に向かって声をかけた。ニキータはこれを受けて声を張り上げた。
「ああ、ビアンカ! あたしもジョバンニもあいつのことを一生忘れることはできないだろうから、安心しな!」
そう返事をすると、ニキータはジョバンニの背中を二回軽くたたき、「ほら、ジョバンニ。お前もビアンカに何か言ってやれよ」と言って、言葉を返すように促した。
ジョバンニはやや覚束ない調子で、「お、おうっ」とニキータの呼びかけに反応すると、ようやくビアンカの方へ顔を向けた。
「ビアンカ嬢。言われるまでもねぇ。あいつのことは誓って忘れねぇでいてやる!」
ビアンカは、クスッと笑うと、墓場の出入口に向かうカセラ教授の方へ駆け寄っていった。
「それにしても、ピアさんにも来てもらいたかったわ……」
「用事があるって言っていたからね。仕方がないよ」
次第に遠ざかっていくビアンカとカセラ教授の声を耳にしながら、残されたジョバンニとニキータは、しばらく無言でいた。沈黙を破ったのは、ニキータの方だった。
「ふふっ。それにしても、相変わらず尊大な言い方だな。まあそのぐらいないとミラノ一の喧嘩屋は務まらないか」
言われた側のジョバンニはこれを聞くと、独り言のように呟いた。
「ふっ。これで邪魔者はいなくなったって訳だ」
ニキータはこのジョバンニの言葉をちょっと意外に感じたらしく、半ば咎めるような表情でジョバンニを見た。
「おい、ジョバンニ。いくらお前でもそんな邪険な言い方はないだろう! どうしてそんなことを言うんだよ?」
ニキータはビアンカとカセラ教授の側に立ったかのように、ジョバンニに抗議し、その言葉を口にした理由を尋ねた。しかし、ジョバンニは少しもそれを気に留める様子もなく、ニキータに向かって言葉を続けた。
「さすがはニキータだ。今じゃこのオレに逆らった口を利くのはミラノ広しといえどもお前くらいだ。オレはお前のそんなところが気に入っているのさ。
ニキータ。オレがあいつのことを忘れないように、お前もあいつのことを忘れないでいてやれ。だが、オレが認めてやるのはあいつだけだからな」
これを聞くと、ニキータはジョバンニに言葉を返した。
「おいおい、何様のつもりだよ、ジョバンニ。まるであたしがお前のものにでもなったような言い草じゃないか」
ニキータはそう言ってジョバンニを軽くなじったが、ジョバンニは真顔だった。ニキータはそれを見て思わず声を漏らした。
「ジョバンニ。まさかお前、本気であたしを自分のものにするつもりか?」
するとジョバンニはためらうことなく答えた。
「ああ、そういうことだ。つまり、お前の心の中にいていい男は、あいつの他にはオレしかいねぇ、ってことだ」
言いながら、ジョバンニはいきなりニキータの両肩を両手でつかみ、体をたぐり寄せて、その真顔をニキータの顔に近づけた。互いが互いの吐息を感じるほど、その距離は狭まった。
ニキータは大いに驚き、その口は声を失い、その目は何度か瞬いて、顔は赤く染まった。
ニキータはどぎまぎしながらも辛うじて言葉を発した。
「ジョ、ジョバンニ。あたしはさっき、『もうあいつ以外の男を受け容れられそうにない』、と言ったばかりだろ。もう忘れちまったのかよ?」
ジョバンニはニキータの両眼を直視したまま静かに力を込めて声を押し出した。
「忘れてなんかいねぇよ。オレはお前の心の中を承知の上で敢えて言っているんだ。
オレはあいつがいなくなってからもずっとあいつを超えることばかり考えてきた。だが腕っぷしを除けば何もかもあいつには敵わねぇってことを思い知らされるばかりだった。
せめてお前の心の中でではあいつに勝ちたいとついさっきまで思っていたが、どうやらそれも無理な話のようだ。
だからオレは決めた。オレはあいつとあいつのことが忘れられないでいるお前という女を丸ごと受け容れてやるってな。それがあいつを超えることのできるただ一つの道だ。
なあ、ニキータ。それでもオレじゃダメか? あいつはよくても、オレはいけねぇのか?」
ニキータはこれを聞くと、ますます顔を赤らめながらも引き締まった真顔になった。
「本当にいいのか、ジョバンニ。
あたしの中からあいつが消えることはないんだぞ。もうどこにもいないあいつのことを想い続ける、そんなあたしという女と一緒になって、お前は本当に納得できるのかよ?
それにさっきも言ったように、あたしが誰か他の男と一緒になったら、あいつがかすんでいって消えてしまうような気がしてならないんだ。そんなことあたしには耐えられない。だからいい返事はできやしないよ」
この、やんわりとではあるが、はっきりした自分の求愛に対する拒否の言葉を受けても、ジョバンニは一歩も退かず、ニキータに向かって更に言葉を浴びせかけた。
「ニキータ。お前はまさかもう命のない奴と本当に一緒になれるとでも思っていやがるのか?
だとしたら、それは間違っている。
生きている奴だけが本当に一緒になれるんだ。それに、お前はあいつがそこまでお前を束縛するのを望むと思うか? あいつだって、お前の幸せを思うんだったら、決してそんなことを望みはしねぇはずだ。
お前が尼さんにでもなろうと思うんなら話は別だけどよ。
まあ、今のお前には厳しく聞こえるかもしれねぇが、これが現実だ。
オレは、あいつのことを尊重する男である限り、そいつを受け容れても全く問題ねぇと思う。
そして、あいつのことを認めた上でお前と一緒になれる男は、このオレを除いて他にはいねぇ。
オレと一緒になることがあいつの存在をかすませてしまうことになるというのはお前の勝手な思い込みだ。むしろオレはお前があいつのことを忘れてしまうのを許さねぇ。
それから、お前と一緒になることに納得できるかできないかはオレが決めることだ。
少なくともオレは、あいつを想うお前のことを認めた上で気持ちを伝えているつもりだが、分からねぇか?」
ジョバンニのこの言葉を聞くと、ニキータは両眼を閉じた。
「……ジョバンニ。確かにお前の言う通りだ。
もうあいつとは一緒にはなれない。それにあいつだって、あたしがあいつに憚って独り身を貫くのはきっと望まないだろう。
そして、生きている男の中であたしのことを一番理解してくれているのはどうやらお前のようだ。しかもお前はあたしにあいつのことを忘れるなとさえ言ってくれた。誰よりもプライドの高いお前がそこまで言ってくれたんだ。お前も随分器が大きくなったな」
ニキータは顔をアルフレドの十字架の方へ向け、目を開けた。
「それに、あたしは知っている。お前はあいつと同じくらい魂が気高く清らかで潔いってことを」
ジョバンニはニキータの横顔を見て、ニキータの両肩から両手を離した。両肩をつかんだ状態からそのままニキータを抱き寄せることもできたが、そうしなかったのは、自分らしくないと思ったからだった。
ジョバンニは、ニキータの左に並ぶように立ち、ニキータの見ているアルフレドの十字架の方へ目をやって、口を開いた。
「ニキータ。オレと一緒になれ! そしてオレについて来い! オレはあいつのことを想い続けるお前を一生守ると誓ってやる!」
そう言うと、ジョバンニは再びアルフレドの墓の前に進み、アルフレドに語りかけるように言葉を続けた。
「アルフレド。てめぇにも誓ってやる。オレはてめぇを一生忘れはしねぇと。てめぇはオレとニキータの中でずっと生き続けるんだ! ニキータがオレの色に染まっていくのを見続けながら。安らかに眠れると思ったら大間違いなんだからな!」
これを聞いたニキータは、ふふっと笑い声を漏らした。
それに気づいたジョバンニは思わず振り返った。
「ニキータ! 何がおかしい!」
ジョバンニが、やや顔を赤らめながら、ニキータに近づいてそう言うと、ニキータは、それを受けてジョバンニに向かって口を開いた。
「いや、すまない、ジョバンニ。お前があんまり真剣にあいつに声を出して話しかけるもんだから、微笑ましくて、つい。
まあ、あたしもお前のことを笑えやしないんだが。
だけど、嬉しかった。お前の中にもあいつが生きていることが分かって。
そして、あたしを女として認めてくれて。
ジョバンニ。お前さえよければ、あたしはお前についていく。胸の中のあいつを抱えながら。今のお前の前でなら、あたしも喜んで女でいられそうだ。
あたしはもう昔のあたしとは違う。あたしはあいつのおかげで女であることへの嫌悪の呪縛から解放され、女として目覚めて、女であることの喜びを知ったんだ。
あいつだってあたしとお前との仲をきっと祝福してくれるだろう。
それにお前とあたしが一緒になったら、親の代のすっきりしない過去にも決着がつく。正直あたしは……」
「もういい! やめろ、ニキータ! これ以上言うんじゃねぇ!」
ジョバンニは、突然ニキータの話を遮った。ジョバンニはニキータの話が恵まれなかった幼い頃の自分に及ぶことを嫌ったのである。ニキータもすぐにそれを察した。
「……分かった、ジョバンニ。もうこの話はやめにしよう。お互い、辛くなるだけだもんな。だけど、これだけは言わせてくれ。あたしは今でもお前に対して負い目があると思っているんだ」
ジョバンニは、これを聞くと、先程とは打って変わり、感情を抑えた口調で言った。
「……ニキータ。何もお前が負い目に感じる必要はねぇ。お前のせいじゃねぇんだからよ。
それに、今のオレがあるのは、その過去によって鍛えられたからだ。オレは、強くなってやる、と思って、実際強くなった。それだけで充分だ。
さっきも言ったが、泣き言や恨み言を並べるのは、オレの趣味じゃねぇし、オレはそんなにヤワじゃねぇ」
しかし、ジョバンニは、心の中ではニキータの言わんとしていることが充分に分かったし、実際、ニキータと一緒になることが、互いにとって一番良い過去の終わらせ方であるとも思った。
(そうだ。昔のことをいつまでも引きずっていても仕方ねぇ。今までのことはみんな、オレがニキータを手に入れるためにあったんだ。そう考えれば、腹も立ちやしねぇ。全く運命ってやつはうまくできてやがるぜ)
ジョバンニは心の中でそう独り言を呟くと、恥じらうように小さく低い声をニキータに向けて発した。
「ところでニキータ。お前にひとつ頼みたいことがあるんだ。聞いてくれるか?」
ニキータは、ジョバンニの唐突な言葉に、きょとんとした表情になった。ジョバンニが人に頼みごとをするのは、非常に稀なことだったので、ちょっと吃驚したようだった。
「えっ、どうしたんだよ、急に」
驚いているニキータの顔とその裏返った声に愛らしさを認めつつ、ジョバンニは真顔で言った。
「オレに字を教えてくれねぇか? ミラノで名の通ったこのオレが、字の読み書きもできねぇなんて、恥ずかしいじゃねぇか。
ロミオの奴だって、できるようになったんだ。このオレにできねぇ訳がねぇだろう?」
ニキータはジョバンニのこの言葉を理解すると、小さく微笑し、穏やかな目つきでジョバンニを見た。
「何かと思えば、そんなことか。もちろんいいぞ、ジョバンニ。あたしがみっちり教えてやる」
このニキータの言葉を耳にすると、ジョバンニは白い歯を見せてニヤッとした。そして、それを見たニキータもジョバンニに向かってニヤッとし返してみせた。
それを認めると、ジョバンニはもう一度アルフレドの十字架の方を振り返った。
(アルフレド。オレの人生はまだ始まったばかりだ。オレはこれからてめぇの分まで精一杯生きてやる。ニキータと一緒に。見てろよ)
そう心の中でアルフレドに言葉をかけると、ジョバンニは空を見上げた。綺麗に晴れた青い空が、自分の心を反映しているかのように、ジョバンニには清々しく感じられたのだった。